北海道では開拓がある程度進んだ時期、各地で経済的に成功した
人士たちによって、豪邸が営まれたようです。
この愛別でも、米穀雑貨、味噌麹製造業で財を成した「上西」さんが、
現在「粋人館」として生まれ変わったお屋敷を大正11年・1922年に建てた。
ちなみに愛別町の人口は当時がおおむね6,000人で現在は3,000人弱。
北海道全域では人口250万前後から現在は550万前後。
右肩上がりに人口が増えていく時代で、札幌集中のような傾向はなく、
いわば拡散的に日本の総人口も右肩上がりだと思われていた時代。
生めや増やせや、というような「国民国家」成長の時代だったのでしょう。
上川百万石というような言葉が人口に膾炙された。
折から1918年には「米騒動」という全国的な騒擾が歴史的に確認できる。
〜肉や魚などの摂取が少なかった当時、
日本人の食生活は穀物類が主体だった。特に肉体労働者は
激務のため1日に1升(1.8リットル)もの米を消費したといい、
米価の高騰は家計を圧迫し人々の生活を困窮させていた。 〜
というような記述がWikipediaに確認できる。
北海道はとくに開拓の余地がまだまだあり、基本食料としてのコメを
主要扱い商品とした上西さんは、現代の農協のような役割を果たしながら、
経済的富を集中的に実現しただろうことが容易に推測されます。
北海道に残る「古民家」では、こういった成功者の住宅事例が多い。
北海道西海岸や函館地方では、漁業による収奪型経済成功者が
たくさんの「豪邸」を建てている事実がある。
内陸、上川盆地の愛別では、こういった成功の形があったのでしょうね。
今回のこの建築再生事例については、
まだきちんと「取材」出来ているわけではありませんが、非常に興味深く、
写真撮影などの基礎的な記録はいくつか収めてきた。
断片的な口述情報をふまえて気付いたことを何回か書き残したい。
写真は、この上西邸の旧宅部分の様子です。
玄関はやや角度が振られて造作されていた。
この「間取り」が原設計通りであるかどうかは未確認です。
今回のリノベ工事では、未確認ですが店舗の方は永田正彦さんという
京都の設計者が関わっているようにパンフに表記されています。
写真左手には木骨レンガ造とおぼしき「蔵」があって、どうも構造としては
やや分離的な建て方をしているようです。
2枚目の写真はその蔵の内部の様子。白くペイントされて
展示室的な使用を考慮した空間に仕上げられています。
きのうご紹介した2階の座敷2室を持つ開放的な和風建築空間と
階段を挟んで、この煉瓦蔵が混構造のように連結されています。
この煉瓦蔵と玄関ホール・廊下を介して対面側には
洋間がしつらえられている。出窓風の造作原型から想像してみると、
廊下を挟んだ反対側の和風建築とは対照的な洋風の意図がうかがえる。
開口部に対して壁の面積が大きく、大壁デザインが意識されている。
一方の和風空間の方は、丹精された庭に対して縁側を介して開放的。
ひとつの建築の中でこの両方のデザインを両立させている。
この時代の旧家で特徴的な和洋折衷的内装デザインだと思います。
多くの庶民が田舎では茅葺き、都市では木造賃貸の長屋住まいであった時代、
「見たこともない豪邸」として、わかりやすい「成功者の邸宅」だったのでしょう。
こうした建築が街の駅前に存在し、富でもって睥睨するかのようだった。
建築が権力とか経済とかと短距離的に結びついて存在していたことが知れる。
そうした残照がはるかに香り立つかのようで、興味を強く掻き立てられます。
〜この項、明日以降にも続きます。
Posted on 8月 14th, 2018 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング
コメントを投稿
「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」
You must be logged in to post a comment.