きのう2日土曜日は4つの用件が重なった超特異ブッキング日。
いろいろなことが気がかりでしたが、
伊達までクルマを飛ばして表題の「須藤建設創業100周年パーティ」に参加。
先日も青森県むつ市で宮大工から創業の菊池組さんを訪問しましたが、
この須藤さんも似た経歴を持っている。
2枚目写真のように、はじめは社寺建設の仕事を請け負って創業された。
大正7年と10年に北海道豊浦町の人口集積、開発がある程度進捗して
民族的精神中核施設として神社・仏閣が造営された。
ちなみにこの大正7年当時の日本人口は5,633万人で、
当時の北海道の人口は大正9年で236万人というデータがあった。
まぁ北海道人口はおおむね現在の半数、4割強程度で日本もほぼ同様。
その事業遂行を「地域に根付いて」活動する大工棟梁が請け負うべく
全国の大工ネットワークの互選で社会的に選択され地域にいわば派遣される。
想像に難くないけれど、この2つの施設建設について
その地域から大工ネットワークに対して打診があって、その応答として
山形で宮大工修行した須藤さんの初代・幸次郎さんがやってきた。
このことは地方における工務店という存在がどのようなものであるか、
ひとつの典型例を見る思いがします。
日本の国土開発、人口の増大にあわせて「地方」が形成され社寺建設が行われ、
それにあわせて人材が供給されるシステムが機能していたのでしょう。
歴史はダウンサイズしながらある輪廻をたどっていくものでしょうが、
聖徳太子の発願による四天王寺の建設と、それに際しての
朝鮮半島からの大工技術者の派遣、日本最古の建設会社・金剛組のような
そういった社会システムが働いていくのだろうと思えます。
この北海道豊浦町でのケースは、ダウンサイズしているけれど、
社会システムの発動としては、非常に近似した事象のように思えます。
それにしても、そこから100年継続してくるというのは、
まことに風雪、歳月を感じさせてくれます。
豊浦町から本拠地を伊達市に移転させ、さらに住宅事業部を作り、
そこから高断熱高気密住宅運動を創始した鎌田紀彦先生の実験住宅を手掛け、
事業の基盤を固めて行っている。
さらに冬期の安定的な建築需要獲得のために千葉県に支店を開設する。
一方で北海道内でも札幌に支店を開設し、
さらに旺盛なニセコ地区での海外需要に対応した「ニセコ支店」を
この6月にオープンさせるということ。
須藤芳己相談役からビデオで「それぞれの時代の人間がみな創業だと思うこと」
という言葉がありましたが、まことに至言だと思いました。
北海道ではまことに希少な100年企業が今後どのように発展していくか、
注目していきたいと思っております。
Posted on 6月 3rd, 2018 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング
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