歴史好きにはたまらない山が伊吹山だと思います。
琵琶湖畔南側を東進すると、ずっと正面に見え続ける山が伊吹山。
平野部がその周辺から中部山岳地帯になっていく位置。
逆に東国方面から来れば、もう少しで畿内という最後のランドマーク。
それはまた、北国地方からの地上交通でも同様になっている。
畿内と東国・北国の接点の位置としてきわめて重要な立地を占めている。
いわば、東西日本を分かつ接点に位置しているのだと思うのです。
そういった古来の交通要衝地ということで、
日本史最初の「東西決戦」となった、壬申の乱の激突地にもなったし、
その裾野に含まれる「関ヶ原」も、戦国の東西決戦の舞台になった。
今回、レンタカーで琵琶湖南岸の平野部を東進してみて、
一般道からはずっとこの伊吹山が見え続けることを確認した。
わかりやすい雪をかぶった山体を遠目にも見せてくれていた。
古くは日本武尊がこの山の神と戦い傷ついてそれが原因で死に至ったとされた。
そして壬申の乱による故事からなのか、
この伊吹山で特異に掘り出される「さざれ石」が全国の神社には奉納される。
さざれ石は、小さな小石が再度溶岩で集結した石なので、
八百万の開拓ムラをそれぞれ「クニ」と考えたとき、それらを統合する
「日本」という中央集権国家をイメージさせるのにピッタリだったと思える。
壬申の乱で東国武力を統合して勝者となった天武によって、
その後、験のあった伊勢が聖域化され、さざれ石のようなギミックも
「君が代」のひとつの象徴にしていったのではないか。
天智の弟でありその子が正統と自ら認識しながら、政権を武力で奪取した
天武帝にとっては、数々の王統神話を造作する必要があった。
わたしはそのようなイメージを持ち続けています。
今回はじめて「関ヶ原」も見てきたのですが、
行ってみて、その場所が明白に伊吹山の山麓地域であることを確認しました。
この山麓台地に陣を構えた石田三成が、圧倒的に「地の利」を得ていたことは確実。
それに対して家康は、低地から高地に攻め上がるかたちになっている。
明治になって政府が招いた欧米の軍事戦略家たちが、関ヶ原のこの陣構えを見て
異口同音に「西軍勝利」を語ったとされている。
そうであるのに、家康はどんどんと自陣を前に前にと進めている。
司馬遼太郎さんもこの地を訪れたことを書かれていたけれど、
この陣構えを確認して、ことが軍事常識によって決したのではないことを
深く確認したに違いないと思われました。
歴史好きにはたまらない空間体験を持つことができた。
なかばあきれながら付き合ってくれたカミさんに深く感謝であります(笑)。
Posted on 1月 4th, 2018 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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