今回の年末旅行で風景的にいちばん惹かれたのは
近江八幡の琵琶湖湖岸から北方をみた写真上の光景。
このように見る風景を「湖北の山並み」というのかと思ったのですが、
湖北というのはもっと東側で北国越前に近くなる長浜などの周辺、
あるいは伊吹山もそう呼ばれるということだそうで、
そうすると、この景色は大津市北部の琵琶湖畔の山並みでしょうか。
大津という街は、県庁所在地でありながら、
他県の県庁所在地都市・京都と隣接し、それも10kmほどという
日本ではいちばん近いツイン都市なんだそうで、
歴史的に京都ときわめて近接した成り立ちだと言われます。
この写真の山並みは、京都の北部にも連なっていて、
北方の山並みが人口密集都市を守っている様子が明瞭。
北側のことを「玄武」というように方位学では言うようですが、
ながく日本の都であった京都は風水合理的だといえる。
風景の極限表現として水平線と山並みというコントラストは印象的。
短い滞在ではあまり聞くことが出来なかったのですが、
こういった情景を謳った歌などはないのでしょうか?
日本最大の琵琶湖らしい光景だなぁとシャッターを押しまくっていました。
琵琶湖は歴史的に日本の物流の大動脈であり、
ながくその主役・日本海交易と京都都市圏への流通を担ってきた。
そういう地理的な位置が「近江商人」を生んだとされる。
北陸地方は北前船交易の残滓が各地で見られますが、
その資本家は近江商人たちが関わっている場合が多い。
物の値に日本社会でもっとも影響力を持ち続けていた存在でしょう。
物流という現物の推移をウォッチし続けることで、
自然とその感覚が錬磨されていったのだろうと思います。
そんな近江商人たちの築いた街が近江八幡。
琵琶湖からの水運を街に引き込んで、ここから京都方面に出荷され、
また各地へ京都の先端商品、呉服ファッションなどが出荷された。
戦国期にこの地域で織田軍と浅井・朝倉連合が覇を争い、
秀吉や光秀が領地を与えられ、さらに信長が安土城を築いたのは
こういった近江の決定的な地理的経済的要素が大きかったのでしょう。
秀吉が大阪に天下の物流機能を移していったのは、
日本経済史上、たぶん相当大きな革命だったのでしょうが、
その経済機構運営を握っていたのは、五奉行の石田三成らの近江人脈。
三成は秀吉による征伐で疲弊した薩摩藩の経済復興に入れ知恵して、
大阪市場に商品を送って商いをすることを事細かに教授したと言われる。
さらに複雑な理数計算の必要な朝鮮出兵の兵站をも完全に仕切っていた。
日本で全国規模の物流を管理させたら、この近江のひとびとの素質には
敵わない部分がきっとあったのだろうと推測されますね。
Posted on 1月 5th, 2018 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究, 歴史探訪
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