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【10世紀1000km距離間豪族居館のパクリ設計】

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さてきのうから仙台で活動中ですが、
ブログ・facebookの方では、日本エコハウス大賞についての
わたしの投稿に活発な意見が交換されております。
まぁ、日本の住宅断熱進化についていま、盛り上がりを見せてきた
本州以南地域のみなさんの動きと、
一方、そういう熱さとはやや距離感のある北海道の作り手の対応で
相互「対話」の機会になっているようなのです。
メディアで生きている人間としては、そういう渦を作るのも
ひとつの仕事、任務とも思っているので
たいへんありがたい意見交換が出来ていると思っています。
っていう展開なんですが、先週土曜日には
栃木県市貝町で発掘された平安期の「豪族居宅」についてのセミナーの
たいへん興味深い中身、その衝撃が強くあるのであります(笑)。
それを強い興奮の熱いうちに書きとどめておきたい。

ということで、本日は住宅談義、一気に時空を超えて10世紀代。
平安京を約500km遠く離れ、相互間距離は1000kmにもなる南北2地点、
当時の日本国家周縁部、会津と南九州で造営された「豪族居宅」が
その設計においておおむねパクっていた事実の発表があったのです。
2枚目の写真は、その掘っ立て柱跡の「設計図」を重ねたもの。
外周部の掘っ立て柱跡は、高床式の穀物倉庫であり、
その配置ではややズレは見られるものの、豪族居宅中心施設である、
「四面庇」という威信性の高い建築はまったく設計図が重なっている。
おお、であります。
この発表は公益社団法人・福島圏文化振興財団の菅原祥夫先生から。
先日このブログで栃木県市貝町で発掘された豪族居宅については
書いたのですが、その詳細発表、背景説明であきらかにされた。
で、先生の推定では、この2つの豪族居宅とは
同一士族である平貞盛の弟が出自である可能性が高いとされていました。
平貞盛とは、939年に勃発し、940年に平定された
平将門の乱を鎮圧した歴史上の人物。板東平氏ですね。
かれの一統が乱の平定によって大きく朝廷から賞され、
全国で「報償」を得たことは間違いがなく、武門らしく当時の緊張地域、
「まつろわぬ」ものたちの地、蝦夷や隼人との国境地帯での
領地利権を得たことが文献記録からも明らかになっている。
考古的発掘と、文献記録の両方から、明瞭な歴史痕跡が重なったのですね。
しかも、両遺跡がほぼ同一の設計プランであったことは、
同一士族として、場合によっては建築技師の同一性も考えられる。
貞盛系平氏一統の家に家人として仕えた建築技術者の存在が
どうも推測可能なのではないか、
そして専門的建築技術者集団が、成立していたのではないか、
そのようなリアリティが、明瞭に像を結んできたと思えるのです。
この時代は、生産されたイネ自体が「貨幣」機能を持っていたのであり、
その結果全国に出現した「富豪の輩」が、墾田永代私財法の発布とともに
急速に荘園開発が加速させていった時代。
租税の厳しすぎた公地公民制度の「公地」から逃亡した人々が、
こうした私有地所有の豪族に、隷属民として、いわば公民から私民に
「まだマシだと喜んで」なだれ込んでいって、
古代的律令国家体制が崩壊し、私有地制の封建社会に移行した事実の
その明白な建築的表現として、明示されたワケです。
歴史と住宅建築の両方に深く関わってきたわたしの興味分野として、
その見事な統一感が得られ、やや興奮していた次第です。

まぁちょっと、マイナーすぎる興味分野でしょうか(笑)。

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