ここのところ、日本の住宅価値が
「買ったとたんに大損になる」構造についていろいろ書いてきました。
欧米では常識において存在しないこういう市場構造について、
「市場の失敗」として認識し、ユーザー利益の立場に立って
再構築して行かなければならないのではないかと提起してきた次第。
古民家文化の現代化に取り組んでいる「き組」の松井さんからコメント投稿。
「住宅の減価償却が22年という消費財の考え方がおかしいですよね。
100年以上生きている家もたくさんある事を考えると、
社会資産としての住宅を位置づけて、
より長く使える建物の価値付をすべきだと思います。
22年なんてすぐですよ。アメリカン・ビューティーという映画で、
住宅を高く売る主婦の話が、興味深かったです。」
というコメントをいただきました。
日本でまともな「不動産評価システム」が根付かないのには
いくつかのポイントがあると思います。
基本的には日本の「住宅政策」に哲学がないのでしょう。
なにが「よき家」であるかについて、きちんとした考え方がない。
いまでは、こどもたちに「良い家」について質問したら
どんな答が返ってくるものか、想像することすら出来ない。
それに対して写真は中国の「四合院」住宅ですが、
海外ではその国の文化風土なりにそれぞれ継承すべき「よき家」概念がある。
わたしの乏しい海外住宅体験でも「高級住宅」が常に規範としてあった。
いま、わたしたち日本人にそういう文化がない。
戦後の住宅政策はそのスタートでは、焼け野原の戦災復興だった。
基本的に「どうしたら住める家を大量に建てるか」というもの。
そこから量を満たすこと、
大量生産がよいことという規格大量生産型に大きくシフトして、
建てることが自己目的化して、「なにがよき家なのか」が後回しになった。
戦後復興から高度経済成長の時代は、そういう時代だった。
その後の公団住宅に導入された「LDK」思想が、
広範に広がったという意味では、よき家の規範にはなったのかも知れない。
ただそれは「よき家」という文化的なものというより
近代的生活スタイル、普遍的価値観を表現したものだった。
いわば「機能主義」であったのではないか。
戦後の生活価値感、便利な暮らしという名の下での
規格大量生産家電類に囲まれるのにちょうどいい家という意味合いだった。
考えてみれば、戦前までの住宅は抜けがたく「家」思想の発露。
都市賃貸住宅以外の伝統的住居とは、祖先から伝えられた
「家系」の存続を第1義的価値感とした住宅設計思想だったのだと思う。
神棚や仏間という神聖空間をなによりも重視する住居だった。
戦後以降、日本はこの神聖空間よりも現代的生活合理性、
規格大量生産商品の方に価値感が置かれた社会だったのかも。
家の価値がどこかで住み処を失っていたのではないか。
テーマが巨大すぎるかも。しばらくは思索を深めていきたいと思います。
Posted on 8月 9th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング
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