ここ2日間、わたしのブログに対して実に多くのみなさんが
積極的に発言してくださっております。
実は,日本でわたしたちが作っている家づくりは、世界的に見て
贅沢きわまりない「注文戸建て住宅」であり、
個性実現型の家づくりに邁進してきたのだけれど、
しかしその集合として出来上がっている「街」は、
サスティナブルな将来世代への資産たり得ているのか、と自問して
どうにもおぼつかなく、嘆かわしい現実だと、
多くのみなさんからの声が寄せられているのだと思います。
わたしたちは、目の前の木を丹念に一生懸命には見てきたけれど
けっして集合美としての街という
美しい人間環境の「森」の熟成には至らなかった。
その結果、砂漠に生える木もありハワイにある木もあり、
ヒマラヤに育つ木もあるような、およそ集合資産とは言い難い
イメージの統一感のない、そんな無国籍な街を作ってしまった。
個人の好き勝手に迎合することがいいことであるような
そんな無責任な「資産づくり」になってはいないか、
深く致すべきところがある、ということなのだと思います。
わたしたちは、京都町家群を生み出し、
全国各地にすばらしい集落景観を生み出してきた民族であるのに
いま、自分たちが作っている街の、なんと美しくないことか
その冷厳な事実を,なるべく見ないようにしてきたのだと。
そんな気付きがあったように思います。
飛騨高山の街、家づくりを丹念に見ていて、
そこでは、すでに建てられていた建物にリスペクトして
その存在との調和を第1に考えたプランニングが積層していた。
そのようにお互いがお互いの存在を認め合って
集合美としての街の美観形成に、みんなが自覚的であった。
そうして出来上がっていく街は、気品があり、
自ずから都市景観美に至っていた。
現代のわれわれが、あやふやな個人の価値感のままに、
好き放題に建てる住宅は、そうした他へのリスペクトは乏しい。
やはりこれから第1に考えるべきことは
いまこの建てられている住宅は、長く持続可能であるかどうか
そういった性能でありデザインであるか、と
問い続けることなのではないかと思われます。
育てる木が、大きな森の一部を形成するのだという自覚、
そういった心理が育っていくことが重要なのではないかと
そんなふうに思うようになって来ました。
後の世代に、わたしたちはこういう家を作り
こういう街を自覚的に作ったんだといえるようにしたいですね。
Posted on 11月 10th, 2015 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅取材&ウラ話
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