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北海道厚真への奥州藤原氏の進出意図

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さて年もあと2カ月あまりになってきて、
年末進行のラッシュ状態になってきております。
各種の打合せや会議など、あわただしい。
さらに週末には先週お知らせした鎌田紀彦×前真之の注目の対論もあります。
一方で、経営関連でコンサルタント会社との進行案件もある。
しかもそういうなかで新人スタッフが2名入社ということで、
だんだんと業務関係、ヒートアップしてきているところであります。

こういう時期こそ、朝1番には(わたし、習慣的にブログは起き抜けの作業)、
ゆったりとした話題を(笑)・・・。
ことし一番、知的興奮を憶えたのが、奥州藤原氏の北海道での進出痕跡が
明瞭に確認されたという話題であります。
写真上は、北海道の道央部分のマップ写真。
こういう位置になぜ、奥州藤原氏は、拠点を造営したのか。
下の図のように、「経塚」を造営した拠点であります。
仏教による「鎮護国家」思想を持って、奥州・北方世界に覇を唱えた
奥州藤原氏の精神文化に於いて経塚造営は強い意味を持っていたことでしょう。
この時代の最新にして最高レベルの「威信財」である常滑焼の大壺に
仏教経典を収めて埋蔵させるという、「特別な場所」性が伝わってくる。
平泉から遠く離れ、対アイヌ交易拠点としての青森県外ヶ浜からもさらに遠い、
この厚真の地に、なぜこうした重要拠点とおぼしき痕跡を残したのか。
やはりわたしには、大壺製造年代として1150年代と特定された時代の
日宋交易の決済手段としての「金」生産に関わっていたのではないかと
そういった直感に支配されております。
厚真の地は、金産出が期待できる日高地方に近く、
さらに川伝いにいろいろな内陸型の資源交易流通に適しているように思います。
平家の繁栄を支えた日宋交易にとって、
奥州藤原氏が安定的に出荷していた金は、強い需要を持っていたに違いない。
こうした金産出への期待に、このような経塚造営は意味合いからも
ふさわしいように感じられます。
砂金堀という作業従事者の心性に想像を巡らせてみれば、
こういった神仏への祈りというモノは、わかりやすいのではないか。
そういった金堀師さんたちからの産金を集積するために
こういった「交易拠点」をこの地に作ったというのが、いちばん自然な理解。

歴史では、この時代に奥州藤原氏に対して
平氏政権から官位として「陸奧守」が授けられてもいる。
政治的にはともかくとしても、金をはさんで考えれば、経済的には
平氏政権と奥州藤原氏とはかなり強い関係性で結ばれていたように思われる。
平氏政権の短時間での全権掌握という流れには
政治軍事の面だけではなく、経済の圧倒的支配者という面が強かったのだろう。
そう考えると平氏ー奥州藤原氏の提携、連立という状況があったのではないか。
どうもそんな脈絡に於いて、この北海道での拠点というのは
位置づけられるのではないかと、妄想を膨らませております。
この遺跡の考古・歴史研究の進展を期待して待ちたいと思います。

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