ことしこれまで読み続けてきた本のなかでいちばん衝撃的だったのは
やはり、「人類史の中の定住革命」という1冊でした。
どうしてもわれわれ現生人類は、農耕社会成立以降の
ものの開発過程という表面的なものに目が向きがちですが、
この本では、わたしたち人類が獲得してきた意識の古層を
それ自体を「進化」としてとらえて、解析する目を与えてくれました。
脊椎動物の進化に於いて「口型」「手型」の分類など、
あまりにも当たり前すぎて、普段は絶対に気づきもしないことが、
実は「進化」にとっては、きわめてエポックメーキングな「出来事」だった、
という視点など、まったく衝撃そのものでした。
そういう進化に、わたしたちは巨大な時間をかけてきたのでしょう。
その読後以降、やはり視点に於いて、
そういった巨視的な部分から演繹してくるように心がけるようになりました。
最近、そういう視点での気づきがあったのが、
アイヌ研究の瀬川さんの本を読んでいて、
旭川アイヌ社会の人々との交友関係の様子について触れた箇所。
まるで親族のような「濃密なコミュニティ」の様子が語られていた。
そのことが、人類学での「なぜ、言葉が生まれたか」という問いでの
「相互の緊張緩和」にその根拠を求めた部分と、ピッタリと重なって
この「濃密なコミュニティ」というものが、
このことの現代にまで残されてきている人類的痕跡ではないかと
そんな思いに駆られた次第です。
現代人に於いては、この「濃密なコミュニティ」というものは、
だんだんと忘却されつつある人間関係ではないかと思います。
わたしの親たちの世代についてみてみると、
このような「濃密なコミュニティ」に、かなり依拠しながら生きていた。
北海道に移住者として渡ってきた祖父の世代では、
郷里を同じくする人間関係に依存して、居住箇所を定め、
生きていく手段も、さまざまな依存関係において選択されてきた。
つい数十年前までは、そういったウェットな社会関係が一般的であったのに、
いまはそうした関係性よりも、もっとドライな資本主義的というか、
「濃密なコミュニティ」とは違う、いわば「無縁」社会が広がっている。
血族あるいは、地縁というような関係性がはるかに後退し、
そのすき間を、公共であるとかの「無縁社会」が、
制度として埋めようとしてきている社会にわたしたちは生きている。
もうすぐすると、「濃密なコミュニティ」という実体が、
忘却されていくことも、予測していなければならないのかも知れない。
社会というものへの、冷徹な分析眼を持たねばならないと、
そんなふうに思っているところです。
この流れは、とめどなく続いていくのでしょうか?
Posted on 9月 25th, 2015 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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