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明治初年、札幌近郊官営ホテル

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明治の初め頃、政府はロシアの南下政策への対抗として
国防的な国策としての北海道開拓に必死に取り組んでいた。
この当時の国際情勢を考えれば、明治政府の北海道開拓にかける思いは
まさに薄氷を踏むものだったのではないかと思われます。
第2次世界大戦にまで至る、列強による植民地争奪競争という世界情勢の中、
きわめて遅れて、近代化に取り組んだ日本政府にとって
当時の世界最強軍事国家・ロシアと、地理的にも最前線で対峙する北海道は、
まさに日本の国防の運命を握っていた。
その最大の国防策こそ開拓であり、移民の増加だったのだと。
札幌の都市建設は、その国家意志そのものの発露だったのだと思います。
その都市計画、開拓計画に北米の思想が移植された。
アメリカの農務省次官を退官したあとのケプロンさんがグランドデザインし、
アメリカンスタイルの都市計画が実行されていった。
ロシアに対して、アメリカと共同で立ち向かうというような
国家意志の基本的な方向性をそこに見ることもできるのかも知れません。
なんといってもアメリカは、経緯はともあれ、
もっとも最初に近代的な国交を樹立した友好国だった。
北海道の開拓初期というのは、こういう国際情勢の中に行われた国策だった。

当時の国家予算の中でも、
この北海道開拓のための国家的投資額は、他地域とは比較にならなかった。
地域開拓と言うことが、そのまま国防策でもあったのでしょう。
この写真の建物は、この「札幌本府」から、南下して室蘭港に至る道路開削を
担った「本願寺道路」途中にあったそうです。
国策としての開拓に当たって、本願寺という宗教勢力もその財力を提供して
国防に寄与するという姿勢を示したのだと思います。
明治初年、国庫は資金不足であり、
そういうなかで官民を挙げて、「国防」を死活的な問題として共有していた。
こういった寄与を当然とする国民的意識が存在したと思います。
やがて侵略に至った戦前の轍を踏まないというのは確かに当然ですが、
平和はまず、国防が前提であることもまた疑いようがありません。
国がその基本的生存を担保することを考えるのは、
憲法どうこう以前に存在する、世界の中での国家の自然権でしょう。
少なくとも明治時代、わたしたちは正常にそう思っていたと思います。
札幌から、温泉が開発されて賑わいを見せていた定山渓までの道中、
その中間地点的な場所に、この宿泊施設は公共事業として建設維持されてきた。
Wikipediaによると、

簾舞〜みすまい〜通行屋<この建物の初期名称>
前年に開通した「本願寺道路」の宿場にするため、開拓使により
1872年(明治5年)1月に建てられた。場所は現在の簾舞中学校の付近で、
今は国道230号(詳細は註にて後述)が通る箇所とされる。
当時の政府の命を受けて屋守となった福岡県出身の黒岩清五郎は、
この辺りの最初の日本人定住者として、通行人に宿を提供しつつ
周辺の開拓に取り組んだ。当時移住者が増えつつあった
平岸村(現在の同市豊平区平岸)以南は、石切り山(現在の、同市南区石山)も
まだ開拓されず、江戸時代に発見され明治期には湯治場として有名だった
定山渓まで、途中の休息する場所も、当時はここしかなかった。
深い原生林に囲まれた幅3m以下の本願寺道路を、20km以上もただ歩くしかない
といった地理条件だった。しかし、険しい山岳地帯に繋がるこの街道は、
その直後に開通した札幌本道(国道36号の元となった道路)に
とってかわられる形で、全体的には本願寺道路の交通量は少なくなり、
通行屋は1884年(明治17年)に廃止された。

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写真は外観と、最上級宿泊室、そして食事場所。
建築は、江戸期までの様式で建てられ、主要客室は、
クマの毛皮が敷き込まれた床の間付きの和室。
まぁ、すぐ上の写真はいまのホテルで言えば「レストラン」ですね。
食器の類は、上品そうな漆塗りの据え膳であります。
なんといっても、立派な囲炉裏が据えられて、
その暖が最大のごちそうでもあったのでしょうね。
律令国家体制が施行されて以来、
こういった「官営宿泊用駅逓施設」というのは、
営々と日本社会で建設維持されてきたのだと思われます。
というか、明治国家は近代化するのに古い王朝国家制度を
復刻させてきた国家だったので、こういう「駅逓施設」が、
復古的に制度復活されて、このように実現したものでしょうか?
いろんな想像を思い起こさせてくれる古建築見学でした。

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