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歴史は、想像力で知り得るもの

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きのうの続きであります。
帝国主義列強による植民地支配という時代的な国防論の高まりから、
北海道開拓は国家の執念のようなかたちで推進され、
一方で、王政復古という側面から「官営ホテル」というべき
施設建設が北海道の札幌本府周辺で営まれていた。
っていうような取材報告を書いたら、
そもそもの「律令国家」建設の時代から、こういった「官道」にともなう
「旅宿施設」は、公共事業として取り組まれてきた、という
歴史的な深掘りが、数人の方々と行われてきております(笑)。
こういった中高年歴史好きのSNS交流は、
これからの面白い分野かも知れません。

わたしは、歴史が大好きで、司馬遼太郎文学から相当影響を受けながら、
その後、たくさんの日本史歴史学の書物を読みあさってきています。
もちろん学究ではありませんが、考古学の専門研究会に飛び入りしたりします。
知れば知るほど、人間の営みの奥行きの深さに惹かれます。
ある方から、歴史の見方は司馬文学のようなあいまいなものではなく、
もっと学究的に厳密な真実追究であるべきだという指摘もありましたが、
しかし、学者の世界でもいろいろな意見があって、
必ずしも「これが真実」というものは、
どこまでいっても特定できないのだと思います。
いまここにある現代についてすら、
「こういう時代だ」と言い切ることなど不可能。
そもそもその時代にもいろいろな考え方や、人間行動があったのです。
それも個人としても、非常に矛盾に飛んだ行動を取るのが人間です。
例を挙げれば、王家での結婚は大きな政治問題でもあっただろうけれど、
しかし同時に生々しい男女としての
個人的感情もまた大きな部分だっただろうと。
そういった非定常な要素も絡み合っているので、
論理だけではとらえようがない。
やはり「巨視的」に大づかみするしか、歴史は捉えられないと思います。
学問の世界でも歴史学者たちも、細分化されてきていて、
特定時代に特化してしか、研究自体が行われていないのが現状。
よく言われているのが「通史」である人間の営みを、
各時代で都合良く切り取って研究することはおかしいとも言えるのです。
そこで文学的な総合的把握のほうが、
明瞭になる部分が大きい要素がある。
そんな考え方で、素人ながら、楽しく歴史を学び続けている次第です。

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