きのうからの続きで、人間世代スパンと歴史時間についてです。
歴史的な「時間」を測っていくのに、単純には年代を使いますが、
人間は、「世代」を更新しながら命を繋いでいく存在である
ということから考えていくと、もうちょっと違う見方が出来るのではと
そんなふうにいつも考えさせられます。
自分自身のことで言っても、つねに父親や母親、祖父・祖母
といった近縁者の事跡やことばに多くの影響を受けている。
社会はいろいろな動きをしているし、国際関係が影響することもある。
けれど、主観的には人間は血縁のつながり意識のなかで
一番大きな規定を受けて生きているのだと思うのです。
「オヤジはこんなとき、こういう風にして生きてきた」
というような経験値の痕跡を最大の知的資産として
血縁者間で知恵を共有しながら、生き延びてきたと思うのです。
そういったとらえ方で言えば、やはりスパンの単位として
「世代」というとらえ方の方が、人間存在の主観に沿っているし、
もっといえばDNA的にも、納得感があるのではないかと思う。
で、歴史年代的にも、3世代くらいはつねに経験値共有が
ありつづけてわが家の家系は生き延びてきた。
子・親・祖父母というような3世代は、
ある枠の中での情報共有ができていただろうと思います。
そんな時間単位のモノサシを当てはめてみると、
きのう書いた「縄文13,000年からの列島社会での歴史時間」
「アフリカから出発して世界に進出した50,000年にわたる
現生人類のDNA歴史時間」というようなものも、
世代更新の継続と考えてみたら、すこし違う尺度になる。
大ざっぱに、1世代を25年という周期での更新と考えると
それぞれ、500世代とか、2000世代というとらえ方になる。
それも3世代を1ユニットとして捉えると、
わたしたち人間というのは、167世代とか、668世代とかの
「経験値共有」生命としてこの歴史を生きてきたといえるかも。
というような妄想を抱いています。
こういうとらえ方は、かなり刺激的な部分があって、
昔の人のさまざまな経験に対して、なまなましい感受力で
再体験できるような気分をもたらしてくれます。
少なくとも、年単位だけでの把握とは違った手応えが見えてくる。
そして「生き延びていく智恵」として「保守」すべきものは
こういうユニット間で、いわば常識的な生き方として、
いろいろに伝えられてきたに相違ないと思うのです。
いちばん直接的には、父から子へ、母から子へと
一般的には年長者からの「小言」として相伝的に、
そういった智恵は伝えられたに相違ないし、わたしもそうであると。
そういった血縁関係は、たどれるとしても
記憶の忘却作用で、10〜20世代も遡ればいい方ではあるけれど、
かならずご先祖様は存在し、いろいろな社会事象の中で生きてきた。
そんなふうに考え続けていると、写真のような縄文の土偶さんからも
「おい、おまえ、いったいなにをやっているんだ」というように
先祖としての「お小言」をいただいているように
そこはかとなく見えてきて、ありがたく楽しい気にもなります(笑)。
あ、土偶なんで、ご先祖母さんかも知れませんね。
Posted on 5月 15th, 2015 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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