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日本史と黄金文化

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さて、きのうまであれこれと多忙で、
今日からの出張の準備がまったく出来ていません(泣)。
月曜日夜に帰ってくるのですが、来週もスケジュールが・・・。
そういう時間がないときに、やや風邪をもらったみたい。
ということで、本日はふたたびアタマを冷やすように
仕事とはまったく関係のない、歴史随想シリーズであります。

写真は金沢の街の金箔加工技術の様子を表現した蔵の内部。
日本の歴史を旅していて、いつも感じるのは「金への憧憬」とでも言える
日本人の意識構造についてであります。
司馬遼太郎さんは、日本人には金への執着心は、多民族に較べて
そう大きくはない、というように書かれた部分がありますが、
わたしには、どうもそうではなく、
日本人くらい、金に固執してきた民族はないと思えてなりません。
そしてその金への執着は、朝鮮・日本へと伝わってきた
北東アジアへの流入民族、その淵源をさらにさかのぼれば、
古代の黒海周辺のコーカサス地方に出自を持つ
黄金偏愛民族・スキタイの血が色濃く流れているからではないかと
そんな妄想をたくましくしているのであります。
古代朝鮮から日本社会にもたらされた技術で大きいものは
製鉄技術であることは明白でしょう。
鉄があってはじめて集団的集約的営農である稲作は可能になった。
大規模な田んぼの造成は、まずは農業土木の利器としての
鉄製農具が不可欠だったのだと思います。
その製鉄と、産金の技術は、非常に近似した技術。
古代の鉱山では、鉄が取れ、銅が取れ、そして究極的に金が求められた。
そうした先進技術は、大陸・半島からの移住技術者たちが
その主要部を担ったに違いありません。
八岐大蛇神話とは、盛んに営まれた山地での製鉄作業を
平地から眺め続けてきたことのアナロジーという説が強い。
そういった移住技術者のなかの「百済王敬福」による奥州産金。
そしてそれを使った平城京の黄金被覆大仏であったことは、
日本の歴史が、民族としての
鉱山資源・金銀銅鉄への執着心の強さを表しているのではないか。
金屏風というようなキャンバスが、芸術表現として
日本オリジナルとまで思えるように発展してきたのも
こういった事情を明示しているようにも思います。
・・・
ということで、妄想は膨らみ続けるのですが、
本日は仙台から花巻までの移動、あすは岩手での講演などもあり、
準備にかからねばなりません。ではでは・・・。

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