日本人と道、ということについてわたしは
なぜか、ずっと考え続けているように思うのですが、
先日、中国の方が書かれている文章にめぐり会った。
”中国の「道」と日本の「技」”と題された文章で、
中国社会科学院 李兆忠という人の書かれた文章です。
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/fangtan/200108.htm/
つい面白くなったので、長いけれど要旨を以下に載せます。
中日両国の文化を比較すると、非常に興味深いことに気づく。
中国の文化が日本に伝わると、厳格な儀式を受けて、
実にかしこまった雰囲気になるということだ。
中国の書法が日本では「書道」に、
中国の茶芸が日本では「茶道」に移り変わった。
日本には数えきれないほどの「道」があり、
日本が「道」の国だということがわかる。(中略)
古来より、中国の優れた文人や画家たちは、
技巧を取るに足りないものだと見なし、
それを誇示することを否定した。
また職人を軽蔑し、才能やセンスに欠けた作品を
「職人臭」があるとしてけなした。(中略)
日本人は優れた技能を持つ「職人」として名高く、
その職人気質の意識は、深く人々の心や血液の中にしみ込んでいる。
職人の最大の特徴は「優れた技能を会得するため絶えず努力し、
名誉を命のように大切にする。(中略)
さらに注目すべきなのは、仕事に全身全霊を傾ける中で、
自我を超越することだ。(中略)
目標に向かい、全力で追求する精神があるからこそ、
日本人は他の民族に真似できないことを実現した。
日本が欧米に「追いつき、追い越せ」とばかりに自国の製品を
世界各地に輸出し、「技術立国」となったのも、
この職人気質と深い関係がある。(要旨抜粋ここまで)
似たような見方は、わたしがこのことを考える契機になった
司馬遼太郎さんの書かれた文章にもあります。
どうやら、日本人にとっての道、という概念は
世界的に見て、やはり特異な心理構造と言えるのかも知れない。
そして今後、グローバル化がもっと進展していくとき、
日本人は、こういう違いをよく認識していた方が良いかもしれないと
そのように思うようになって来ました。
わたしたち日本人が、まるで血肉のように考えていることは
全然グローバルではないのだと言うことを。
Posted on 12月 21st, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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