朝日新聞の件、
そんなに触れたくなくなっている気分もあるのですが・・・。
タオルの「謝罪」に続いては、「ふきん」作戦のようです。
まぁ、結局は商業新聞なので、こういった「拡材」による読者獲得が
なによりも重要な足腰部分であることは自明なのですが・・・。
どうも、報道としての根源的なありかたにおいて、
現在の朝日新聞の姿勢は、身の処し方に潔さが感じられない。
朝日新聞には、分が悪くても、戦後以降の「主張」を通して
きちんと事実の報道で自らを正して欲しいと待っていたけれど、
でももう無理なんですかね。
いまさら事実には向きようもなくなっているのでしょうか。
朝日をかつて好きだった人間には辛い現実が続いています。
いまや、自ら自作自演してきた
「戦後進歩派」というきわめて好都合な立場の中に、
いわば安全無欠な「カメの甲羅」にカラダ全部を入れて、
時の過ぎ去るのを待っているしかないのでしょうか?
しかしそれでは、いよいよメディアとしては死に近づく。
朝日新聞は戦前まで、それも終戦直前まで
イケイケ一億玉砕路線の論陣を張っていたそうです。
それが敗戦後、日本の保守的な権力への反対を鮮明にして
一貫してその立場を「主張」してきた。
ときには詐欺的なプロパガンダを行ってでも・・・。
しかし、戦前戦後のどちらの立場にしても、結局は
「うまくやって、儲かってきた」というのが、密やかな内語だったのではないか。
企業としての朝日新聞は、それだけの内部蓄積があって、
何もしなくても何年も食っていけるだけの資産が形成されているという。
それがその時代を情報産業として「生き抜く」
ベストポジションだったから選択した、
実は、そうであるに過ぎなかったのではないか。
こういったことまで広く一般の日本人が知るきっかけになったのが、
今回の朝日新聞問題の核心的な本質なのでしょう。
報道の中立性という仮面が実はまったくの虚構であったという
事実の開示、明示とでもいうべき今回の朝日新聞事件は、
日本人に多くの教訓を植え付けたことは間違いがない。
その上で、なぜ戦後・朝日新聞的なものが広く支持され、
「進歩派」という、いまとなっては欺瞞的な人権派、
保守的なるもの告発的スタンスが
なぜ情報ビジネス的に「好都合な立場」として成り立ち得たのか?
そういった検証が日本のメディアには求められていると思います。
こうしたメディア界全体の流れの中で
朝日新聞の「思考停止」に近い現状を深く危惧しています。
Posted on 10月 5th, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 状況・政治への発言
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