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日本語と 5-7-5

1811

土曜日に高校同期の同窓会に参加しました。
ことしは「川柳大会」をやるというアナウンス。
なので、当日あれこれ頭をひねったけれど、通常散文を書いているので
なかなか5-7-5の短歌の世界に慣れていけない。
ではあるのだけれど、いろいろ考えていくとやはり5-7-5の世界に
いかに日本語が合っているか気付かされる。
「義理と人情を 秤に掛けりゃ、義理が重たい 男の世界」
という高倉健さんの世界があったけれど、
見事に5-7-5であり、基本的に日本語の独特の「韻」を踏まえている。
そしてもうひとつ気付くのは、
そうやって紡ぎ出される世界観が短調的なリズム感ではないかと思う点。
「津軽海峡 冬景色」
ではないけれど、こうした韻が、長調的ではなく、
独特の湿り気を帯びた雰囲気を醸し出すのを感じる。
たぶん、日本人の心情世界の基本旋律に、演歌的な、短調的な
そういったものが色濃くあるのだと思われる。
そう、恋はかならず悲しい旋律にともなって語られることこそがふさわしい。
義理と人情の枠組みの中で、悶え続けるのが生きることだ
そんな基本旋律が伝わってくるような気がする。
誤解だろうか?

で、同窓会。
多くの「川柳」が披露されて楽しめた。
最優秀作は
「企業戦士 手になり足になり クビになり」
というものだった。
自虐的で人生の悲しみをたたえつつ、ペーソスを感じさせるという作品だ。
メンタリティとして、こういった会合ではこのような作品に
ひとびとの笑いを引き出す共通認識があるだろうから、
そういう意味では、日本的常識にかなっていると思われる。
しかし、同時に気付いたのは、
こういった表現手法では、明るく前向きに生きていくという
そういった作品は出てきにくい部分がある、ということ。
自分でもその場のTPOを踏まえていくと、そのような気分に
作品制作の心根が置かれるようになるのを感じていた。
そんなことを感じながら、
歌謡の世界では、ある時期からこうした短調的な演歌世界が流行らなくなっていて
もうちょっと膨らみのある世界観が主流になっていることを想起する。
恋はいま、もうちょっと違う語られ方で歌われている。
それは世代的な変化を表しているのか
それとも、日本人の変化、社会の変化を表しているのか、
このことを契機に、考え始めております。
ありがとう、良い企画でした(笑)。

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