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次の時代を生きる人たちに

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表題のようなことを最近、深く感じるようになった。
どうも日本型社会が、人口減少問題に直面してから以降、
社会の次のありようを明確に描けていないように思う。
資本主義的な社会発展という人間社会の現状の大きな枠から
それを超えるような枠組みの胎動がまだ見えていない。
そういうなかで、「次の時代像」というものの出口が見えてきていない。

人口の問題は、そのようになっていくことは明確なんだろうけれど、
人口減少というのは、人間社会が現状の社会構造に対して
ふつうに反応、対応した結果だろうから、
むやみに改変したりはできないことがらのように思う。
人間も労働力も減少して、しかもこの社会が発展するような
そういった方向は、いったいどこにあるのか。
明治維新のときには、若者たちがカンタンに動かせたほどに権力機構は
ほころびきっていて、武士階級という小さな世界を
大騒ぎして揺り動かせば良かったのだろうけれど、
現代世界では、そういう社会変革はなにを変えれば良いのかが
明瞭になっていない。
あの時代には、欧米列強という黒船が明確な姿をとって立ち現れて
それを見てキャッチアップするなりすれば済んだ。
結局は、資本主義発展が世界的に進行するなかで、
それを受け入れていけば良かったのだから、
まぁ、いまになってみれば話は明確だ。
それに対して、現代は、なにが革新されなければならないか、
必ずしも明瞭にはなっていない。
資本主義発展の向かうべき方向に未来があるとすれば、
それは「市場の形成」というようなことを見通せば、とはなるけれど、
国家という存在は、どうなっていくのか、ということと合わせて考えれば
やはり未来の形は見通しがたい。
たぶん、そんな状況の中にわたしたちのいまの社会全体はある。

そういう不可視のなか、
少しでも未来を予測して、なにごとかに向かっていかねばならない。
要は、資本主義がどうなっていくか、ということなのだと思う。
資本主義もやはり歴史的なものとして、
止揚されていく存在であるのか、
現代国家という概念もまた歴史的な存在であり、
この両者が、どのような未来になっていくのか、
減少した人口社会で、こういった未来での存続可能性対応が可能かどうか、
わたしの主要領域である住宅では、どのような変化が
起こり得るのか、
まことにむずかしい時代を、生き延びていかねばならない。
どうもそんな回答の出ない
無明を歩かなければならないと思わされております。

<写真は港湾施設の乏しかった時代の北前船交易の荷揚げ風景>

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