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しもつけ風土記の丘資料館にて

きのうは取材が予定調整つかず、やむなく休日となったので、
以前から念願の「北関東最大の縄文遺跡」を見学に宇都宮周辺へ。
久しぶりに「歴史好き」の探訪が出来た次第であります。
歴史取材調査ストックはだいぶ貯まりましたので、おいおい。
で、最後には宇都宮から南下して下野市の「しもつけ風土記の丘資料館」へ。
県立の施設ですが、クルマで行くと手前にラブホテルがあって、やや閉口。
ちょっと入りにくい立地でしたね(笑)。
まぁ、なんとか探し出して訪問。
で、常設展示の方を見ていたら、なにやら来訪者に解説されている方がいました。
どうも小耳に挟んでいるとすごい博識ぶりでびっくり。
なので、ずうずうしく近づいて聞き始めました。
「構いません、どうぞ」と言っていただけたので、興味津々お話しを拝聴。
縦横無尽にこの資料館の展示について語られている。
合間にお聞きしたところ、この資料館の前館長ということ。
退職後ではありますが、ボランティア的に解説されていたようなのです。
ですので、解説の内容はたいへん多岐にわたっていました。
そういうなかでも一番興味深かったのが、
「東山道」と、この下野国の政庁、国分寺・国分尼寺の配置に関するくだり。
展示の方は撮影OKということでしたので、
撮影させていただいた資料のひとつが写真のもの。
古代律令国家は、その基本単位である「国」、
この場合、「下野国」ですが、いくつかの「郡」に別れていた。
その郡を表記しているのですが、
それを貫くように「東山道」が通っている。
律令国家は、中国にその範を取ってまっすぐな「道」を造作した。
たいへんな「公共事業」だったと思うのですが、
たぶん、租税の中の「労役負担」で民衆を動員して作ったものなのでしょう。
先生のお話では、「古代の高速道路ですよ」ということ。
平坦地では実に幅が12mもあり、しかもきちんと
土木的に補強を施した基礎工事も行った「舗道」だったそうです。
そして一定間隔で「駅」も整えられて
国家が使用を承認する用務ではそれらの馬などを使って交通が可能だった。
そういう「駅長」層の家のなかから、
この地域出身の国家的指導者、慈覚大師・円仁さんも生まれているそうです。
そしてこの東山道に面して国の主要な施設が建築されていた。
下野国の政庁、国分寺・国分尼寺などですね。
こうした「公共事業」の労役は郡ごとに割り振られていたようで、
出土する建物の瓦には、各郡の名前が記載されていたそうです。
古代律令国家の日常的な支配の様子がいきいきと甦ってくる。
まじまじとこの地図を見入ってしまうようなお話しでした。
司馬遼太郎さんの書かれた文章でも、古代国家の交通のことはありましたが、
その下取材事項が、まことに肉薄するように理解できた次第。
そしてこうした「官道」を通って、
たとえば坂上田村麻呂などが、北上して蝦夷を侵略したのですね。
こうした陸路と、一方でより在来的な海運・水運が組み合わされて
ひとと情報は交通していたのですね。
たいへんわかりやすく理解できました、ありがとうございました。

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