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日本人と土地_3

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きょうもコメと土地のことについて。
写真は去年末に行った、吉野ヶ里遺跡公園の様子。
右側写真は城郭になっている外周の土塁と堀、逆茂木のようす。
逆茂木〜さかもぎ〜って、ちょっと怖いですよね。
で、塀が回された内部には、高い物見櫓が建てられ、周囲を監視しています。
この国に弥生型の生産スタイル、コメ生産システムが導入された年代は
今、研究がどんどん進められているところですが、
揚子江流域で10,000年前頃から始められた栽培型イネ生産は
そう、ほどもなく日本列島に技術がもたらされたようですね。
しかし、本格化したのは、やはり吉野ヶ里の時代なのでしょう。
たぶん、朝鮮半島地域などから、種籾を持って稲作集団が根付いたものと思われます。
コメは生産の各段階で、はじめから労働集約型としてできあがった生産様式。
田んぼ作りから、田植え、収穫の稲刈りに至るまで、
多くの労働力を集中的に動員する必要があります。
とくに田んぼ作りでは、適地の選定、奪取が不可欠だったのでしょう。
なので、初期段階から、明確に支配・被支配の階級分化があったと思います。
そして、ごく初期の頃から、写真で見るような
戦争への準備が不可欠だったのですね。
敵はたぶん、ごく近くの同様な「クニ」だったのでしょう。
日本人の基本的な性行としての、隣のムラ社会への尋常ならざる敵愾心って、
きっとこうした時代から、守りを固めなければ土地を略奪される
という恐怖心が、DNA的に植え付けられている結果じゃないでしょうかね。
逆茂木を実際に見ていると、この敵愾心の強さに愕然とします。
魏志倭人伝に、国が大いに乱れた、と書かれているのは
実は日本という国の、常態的な状況だったのでしょう。
常に、田の権利を巡って、となりの集落と相争うのが一般的だった。
水利、ということを考えても、日本社会のなかでは
こういう対立は、きわめて自然に存在したのでしょう。
世界的にももっとも狩猟採集生活大国だった、といわれる
縄文の牧歌的世界は、この殺伐とした、
しかし、大量の人口を養うに足る生産システムによって、
駆逐されていったものなのでしょう。
日本人の土地への執着の強さは、こういう血みどろの歴史が
いろいろに語りかけてくれます。
恐ろしいが、まさにバイタリティそのものの活力ある社会、とは言えますね。

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