きょうもコメと土地のことについて。
写真は去年末に行った、吉野ヶ里遺跡公園の様子。
右側写真は城郭になっている外周の土塁と堀、逆茂木のようす。
逆茂木〜さかもぎ〜って、ちょっと怖いですよね。
で、塀が回された内部には、高い物見櫓が建てられ、周囲を監視しています。
この国に弥生型の生産スタイル、コメ生産システムが導入された年代は
今、研究がどんどん進められているところですが、
揚子江流域で10,000年前頃から始められた栽培型イネ生産は
そう、ほどもなく日本列島に技術がもたらされたようですね。
しかし、本格化したのは、やはり吉野ヶ里の時代なのでしょう。
たぶん、朝鮮半島地域などから、種籾を持って稲作集団が根付いたものと思われます。
コメは生産の各段階で、はじめから労働集約型としてできあがった生産様式。
田んぼ作りから、田植え、収穫の稲刈りに至るまで、
多くの労働力を集中的に動員する必要があります。
とくに田んぼ作りでは、適地の選定、奪取が不可欠だったのでしょう。
なので、初期段階から、明確に支配・被支配の階級分化があったと思います。
そして、ごく初期の頃から、写真で見るような
戦争への準備が不可欠だったのですね。
敵はたぶん、ごく近くの同様な「クニ」だったのでしょう。
日本人の基本的な性行としての、隣のムラ社会への尋常ならざる敵愾心って、
きっとこうした時代から、守りを固めなければ土地を略奪される
という恐怖心が、DNA的に植え付けられている結果じゃないでしょうかね。
逆茂木を実際に見ていると、この敵愾心の強さに愕然とします。
魏志倭人伝に、国が大いに乱れた、と書かれているのは
実は日本という国の、常態的な状況だったのでしょう。
常に、田の権利を巡って、となりの集落と相争うのが一般的だった。
水利、ということを考えても、日本社会のなかでは
こういう対立は、きわめて自然に存在したのでしょう。
世界的にももっとも狩猟採集生活大国だった、といわれる
縄文の牧歌的世界は、この殺伐とした、
しかし、大量の人口を養うに足る生産システムによって、
駆逐されていったものなのでしょう。
日本人の土地への執着の強さは、こういう血みどろの歴史が
いろいろに語りかけてくれます。
恐ろしいが、まさにバイタリティそのものの活力ある社会、とは言えますね。
Posted on 8月 7th, 2006 by replanmin
Filed under: 歴史探訪
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