中世以前の北海道アイヌ、あるいは檫文のひとびとを
調査しようとすれば、なかなか文献記録は出てこない。
かろうじてある、江戸期などの近世の記録から
その様子を窺うと言うことになる。
日本的土地価値観が入ってくる以前、当時のエコシステムでは
どんなエリア認識を持っていたのか、
というような興味を持って研究しております。
おおむねアイヌまでの社会では、
太平洋側の「日ノ本」といわれる東方エリアと、
より日本社会との交通が盛んであった日本海側の「唐子」といわれる
大きくは2つのグループに分かれていたと言われている。
道央部分は、その両方のグループが混在的であったのか、
むしろ、太平洋側グループに親しい、と言われているようです。
ここに表現されていないのですが、
上川地方も、サケの生産地として大きな集落が営まれていた。
内陸の上川がどうして、と思うのですが、
海岸近くで捕れるサケは脂分が多すぎて
当時の保存・輸出形態であった干しサケ原料としては
産卵地に近い場所の方が適している、というのが最新の研究だそうです。
唐子、といわれるグループは
その名の通り、北方アジアを経由して中国文化とのつながりも持っていた。
中国の王朝国家の官服であったものが
かれらアイヌ有力者の衣装として「蝦夷錦」と日本社会から呼ばれていた。
伝統的に、交易による「宝」収集がかれらアイヌのアイデンティティだった。
そうすると、日本海地域というのは、
活発に海の交通が行われていた、ということですね。
船をいくつも乗り換えて、活発に物資を交換させていた社会。
川もあり、海もあり、水上交通はきわめて旺盛だったということ。
北海道に生まれたわたしですが、
残念ながら、明治以前の記録や歴史というのは学ぶことが出来なかった。
そういう教育が、北海道のひとの地域へのこだわりの少なさにも繋がっているのか。
もっと若い世代のみなさんに、
可能な限りの知見を、残していきたいものだと感じます。
少なくとも、生まれた地域への興味をもっと強く持ちたい。
そんな思いを持ちながら、こうした地図を眺めております。
Posted on 3月 9th, 2011 by replanmin
Filed under: 歴史探訪
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