さて江戸期を通じた富山の豪農・内山家の時間超越取材シリーズ。
あんまりお金持ちの家には感情移入しにくい部分があり(笑)
それほどツッコミすることはないのですが、
長く続く家系記録も参照できたので人間ドラマも見えてくるオモシロさがある。
きのうは1700年代を生きた当代の「旅行趣味」にスポットを当てた。
本日はいまに残っている豪農住宅の建築年代、1868年という幕末明治。
きのう見た1700年代では一時1000石⇒300石まで衰微したものを
600石まで盛り返し、還暦後さかんに旅行を楽しんでいた様子を記載。
で、幕末明治にいたって、この当時は1000石に版図が復元している。
明治期は大地主層が隆盛を極めた時期と言われる。
地方地主層が財力で新興階級としてのし上がっていった。
太宰治など文化芸術分野でも、社会の最有力層として足跡を残し始める。
たぶん太宰の根底にある「不安感」は、急上昇階層の心象特徴なのかも。
たしかにこの階層がどういう「努力」をしたのか定かではない・・・。
個人としての努力をはるかに超えて社会の趨勢があった。
日本は資本主義が勃興するとき、その「担保価値」として土地が最上として
それを根拠とした進歩発展があった。必然的に土地持ちに権益が集中した。
金融資本自体勃興期であり、カネを貸す担保は土地がわかりやすかった。
結局、人の世というのはその時々で支配層は「循環」するのだと思う。
まぁ現代で言えば、さしずめマスメディアなどは
社会的地位としての既得権受益層というように言えるかも。
戦後体制構築の占領時、米民主党左派がメディアに第4権力構造を与えた。
・・・おっと、横道。で、この内山家も、家運の最盛期を迎えたようなのです。
この松世さんはその家の財力で資本家として活動を活発化させ、
政治家としても国会議員にまでなっている。地方有力者という存在ですね。
いまに残るこの豪農邸宅で特徴的なのが写真のような茶道趣味。
いかにもワビサビを感じさせる石材選びと、その構成ぶりに
「数寄」こころを強く感じさせられます。
1868年にこの住宅を新築したのは、第11代当主の年彦さんなのですが、
その養子・12代の松世さんは京都に遊学して茶道の師匠についている。
藪内さんという「宗匠」という。Wikipediaで調べてみると以下のよう。
〜藪内流(やぶのうちりゅう)は茶道流派の一つ。
古儀茶道藪内流とも。浮薄を戒め利休時代の茶風を留めているとされるが、
これは紹鴎・利休の侘び茶に織部の武家茶の影響をいれたものである。
庵号は燕庵といい、織部の考案による相伴席付三畳台目の茶室を指す。〜
松世さんは男子の継嗣がなかった先代・年彦の弟の子・甥にあたり、
年彦の娘さんと結婚して家を継いでいる。
父親は内山家から出て別姓を名乗っていて、こういう経緯で本家に迎えられた。
本家の財力が大きく縁者もまた京都遊学の機会を得るほどであったのでしょう。
遊学先は内山家は京都が出自という縁もあったのではと推測できる。
こういった石材へのこだわり、という文化は知ることが少なかったので、
「へえ〜〜」と、オモシロい世界を知った気分であります。
この写真の石材の選別配置・結構についても藪内宗家を招いて吟味させている。
また、藪内家出入りの大工棟梁たちがこの建築を手掛けたとの記録。
北陸富山の「地域性・気候風土」への対応という環境性よりも
京都風の文化権威拝跪型の志向がきわめて強い住環境、住文化。
石材の説明などは写真をじっくりご覧ください。ふ〜む、であります。
人間の最後の興味分野は石だと、昔に聞いていたような気がする。
しかしまだまだ修行が足りず、そういう境地にはほど遠いわたしであります。
あ、石器時代にはたいへん興味が強くなってきている。ひょっとして・・・。
Posted on 11月 15th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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