北海道は国土でもっとも遅く明治に道路開削された。
モータリゼーション直前期。基本的に移動手段が人間歩行だった最終期。
日本の道路交通で具体的にその移動距離基準を表す事例を探してみた。
●奈良の都が造営されたとき、諸国に国家事業として道路が作られた。
国ごとに「国分寺」も造営されたほど物資やひとの流通は常態化した。
奈良の都から東北の仙台のさらに奥の多賀城まで道が整備された。
約1,000km。
時速4kmで仮に10時間歩き続けるとしても40km。25日かかる計算。
この距離の移動が頻繁に行われたというのは信じがたい。
往復2ヶ月掛かっていては、気軽に「往復」できるものではない。奥の細道。
この多賀城に国家支配構造が常駐していたのだからカネがかかる。
ながく王朝文学で「松島」や「宮城野」が読み継がれたのには、
この「常ならざる」移動距離の長さ、日数が都人の社会に「遠国感」をもたらし
「異国情緒」にも似た特異な地域文化性を醸成したのか?
●時代は下って戦国期の「中国大返し」の事例が驚異として語られる。
<6月7日から8日、沼城(岡山市)から姫路城に移動。約70km。>
これが驚異的な速度として歴史に伝えられてきている。
前述のように時速4kmは概算でよく使われる距離時間尺度。
70kmというのは、17.5時間歩き続けるということになる。
まぁ、秀吉軍の中国大返しは乾坤一擲の戦争作戦計画であり、
非日常的な作戦遂行目的があった、特異な事例とも思われる。
●江戸時代の移動交通と言えば「参勤交代」が有名。
調べると、福井藩の例では東海道が使われた場合は1日平均約9.4里、
中山道使用の場合は約9.8里、1日あたり40キロ程度の移動。
朝の出発は午前5時から6時、途中昼食や小休止をはさみながら
「約10時間」を踏破し、夕方5時頃に宿泊先本陣・脇本陣<ホテル>に入った。
休日などなく、それぞれ割り当ての荷を負ってなのでかなりハードな行軍。
ということで、遠隔地・松前藩などは特例で5年に1度と配慮されていた。
●さらに京都食文化の「鯖寿司」原材料、サバを日本海岸・小浜から京都まで
運搬する道路、「鯖街道」という情報にも行き当たった。
産地・小浜で塩をふった鯖を背負って1昼夜歩いて京都にたどりつくコース。
この歩行移動の間、適度な「体動」に揺られて塩味が鯖にほどよくこなれ、
甘酢味付けして独特の鯖寿司文化が育ったのだという。魅力的情報(笑)。
この距離が公称で76kmなのだという。峠越えが数カ所ある難行。
鯖寿司は京都食文化を代表する食べ物なので需要は大きく、
この人力輸送はほぼ職業化された移動交通だったに違いない。
そのフィーと往復頻度はどれくらいで、さらに「帰り」にはどういう物資が
京都から日本海側地域にもたらされたかも興味深い。一度ぜひ取材したい(笑)。
しかし移動距離としては、たぶん限界に近く職業的運搬業の世界なのだろう。
モータリゼーション前、古代から明治くらいまで、日本人の移動概念は
やはり1日40km程度が移動距離限界だった。
これが常識範囲だったのではないか。ひとつの歴史のモノサシでしょうね。
Posted on 9月 29th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究, 歴史探訪
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