わたしたちは現代社会に生きているので、色というものについて、
科学的な知識とかが刷り込まれてきているけれど、
実は人類史的にはつい最近まで、このような色彩についての
客観的・科学的分析情報は普遍的ではなかった。
とくに、写真のような「青」空と、植物の「緑」については
その違いを大きくは認めないという「常識」が存在していたとされる。
現代にまで残るその人間社会での文化残滓を求めるとすると、
「青信号」というコトバが思い出される。
一般的に色表記としては「緑」である交通信号の色に対して、ごく普通に
「青」という表現を使い、それがコミュニケーションとして成立している。
「緑」信号というようには普通誰もそれを呼称しない。
で、もっとも注意を喚起する色彩は、断然・絶対、赤であることもオモシロい。
人間のカラダを傷つければ赤い血が流れることが恐怖と刷り込まれている。
学校教育でもテストで悪い点を取ると「赤点」。オソロシイ(笑)。
考えてみたら、かなりおかしいけれど、おかしいとは誰も言い出さない。
これってかなり不思議なことではないだろうか。
民族文化としても色についての感受性には大きな違いがあるとされる。
赤とか黄色とかは色として認識されているけれど、
青・緑はそれを色と認定する文化が欠落する民族があるそうです。
空とか海とか、植物とかであまりに普遍的に日常的であって
その色彩を特定認識する習慣が生まれなかったということなのか。
まさか、民族集団として集団的色盲であったということはあり得ない。
やはりこれは「文化」の領域での問題であるのでしょう。
そもそも「色」というのは、人間にとって「特殊」な心理を呼び覚ますことが
その「要件」であって、めずらしきものという認識が優勢だった。
日本でも、赤については特殊な、霊的な意味合いを強く感じさせられる。
白もそうであるのかも知れない。
白い動物に対して、そこに「神性」を感じる人間心理は強く存在する。
突然変異で発生するこうした色の不思議さは、
ながい人間と自然の共存体験のなかで培われてきたものと思われる。
自然界に存在はしているけれど、赤についても白についても
面的な独占という存在の仕方はあまり見聞きしない。
日本で最初の都市、奈良の都では宗教建築に赤が使われ、
きわめて象徴的なインパクトをひとに与える色として認識されてきたことが自明。
全国に数多く勧請された「稲荷神社」の朱塗り鳥居の連続デザインは
欧米の人々のハートにも深くインパクトを与え、京都一番の観光地といわれる。
やはり人類にとって、赤は霊を激しく揺さぶる特別な原初的な色だったのだと思う。
日の丸という日本の国旗は、明瞭にこれをあらわしているのかも。
この気付きから、人間社会常識の不思議さに
深く興味を抱くようになっている。奥行きの深いテーマだなぁと。・・・
Posted on 9月 5th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究, 歴史探訪
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