現代住宅ではほとんどデザイン的にはワンパターン化している天井。
「高級住宅・個性化住宅」ではごくわずかにデザイン挑戦がある、
というのがいまの状況ではないかと思います。
8日取材の「上富良野町開拓記念館」(旧吉田邸復元)では、
玄関横の「応接間」とおぼしき部屋が「洋室」になっておりました。
当時は上富良野町長だったので、来客も多かったと推測できます。
で、こちらの天井仕上げを見て、白樺の自然木が格子組みされてデザインされ、
その格子の間には、面材として木目の残る板材が使われておりました。
こういったデザイン仕上げというのは、わたしははじめて遭遇した。
大正期、いまから96年前の住宅建築ですが、
非常に革新的なこころみが、出窓や2重ガラスの開口部、
さらにガラス戸での「雨戸」造作などで行われている。
いったいどんな作り手が? という疑問に応えてくれるのが「棟札」。
<これは建築好事家・Tさん撮影の写真(幅広加工)>
大工棟梁として「高原権平」と読み下しうる名前が確認できる。
大正14年8月25日に起工して、9月18日に「建前」
しかし「竣工」年月日の記載がない。
噴火泥流は大正15年5月なので、それまでには出来上がっていたハズだけれど、
その前、2月くらいから噴火の前兆は気象庁の記録にあるので、
十勝岳噴火の影響で工事自体も「竣工」に至らなかった可能性がある。
この時代の建築確認などがどのようであったか、調べていないけれど、
棟札を遺す気風の大工棟梁にしてきちんと記載しなかったのには
なにか、理由があるように思われる。ましてや「村長邸」でもある。
しかしいま、WEBで検索してもこの名前では他の記録に尋ね当たらない。
まぁ大工という職業の社会的地位はこの時代、必ずしも高いとは言えない。
職業としてはあまり人気はなかったのだと言われる。
しかし、棟梁としては遺っていく建築として気合いは入っていたと推測できる。
そういう気合いと、この建物での「革新的こころみ」にはある符号を感じる。
木の素材として白樺は、どういう樹種ランク位置にあるかは知らないけれど
それを製材せずに自然木として使って、その曲がり具合に合わせて
板材を仕上げていったに相違なく、手業は十分に丹精されていると思う。
たぶん板材は1枚1枚微妙に寸法が違っているかも知れない。
こういう仕上げについて、棟梁の技量発揮の檜舞台と考えて作ったのか、
あるいは、施主・吉田氏の強い思い入れや希望があったのか。
いわゆる伝統的な和の大工技量で白樺自然木を使う流儀はあまり見ない。
和洋混淆の住宅の「洋間」の内部仕上げで「いっちょ、やってみるか」と
実験的に採用してみたのだろうか。
天井を見上げつつ、さまざまな想像力が膨らんで止まなかった。
Posted on 8月 12th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 住宅取材&ウラ話
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