さて昨日ご紹介した現在の「上富良野開拓記念館」=吉田貞次郎邸は、
その完成後に大正15年の十勝岳大噴火・泥流被害に遭遇した。
その被害から地域が立ち上がって地域が復興し、災害に生き残った
象徴的な住宅建築としてひとびとの記憶に残ってきた建物だという。
昨日書いたように、世界的な豆需要の高まりで空前の好況を経験したけれど、
その最盛期にこの自然災害に見舞われたのです。
以下、気象庁HP 十勝岳 有史以降の火山活動より要旨抜粋
〜1926(大正15)年の記録より抜粋。
<水蒸気噴火(泥流発生)→(山体崩壊・泥流発生)→マグマ噴火、水蒸気噴火>
中央火口丘から噴火。火砕物降下・泥流→岩屑なだれ・泥流→降下火砕物。
●5月24日噴火:12:11噴火、小規模な泥流発生。14:00小規模な鳴動と噴火。
16:18噴火、中央火口丘の北西部破壊され熱い岩屑なだれが積雪を溶かし
大規模な泥流発生(平均速度約60km) 2カ村(上富良野・美瑛)埋没。
死者行方不明144名、負傷者200名。建物372棟家畜68頭山林耕地被害。
北西U字型火口形成。噴出物量1.3×104m3崩壊物量2~4×106m3。
マグマ噴出量は1×103DREm3。(VEI1)
●9月8日噴火:16:33噴煙高度4600m、行方不明2名。9日小噴火:15:40。
10日小噴火:9:37頃、15:48頃、18:50頃。〜
まことに凄まじい噴火記録に目を覆いたくなる。・・・
十勝岳は地域が開拓以降も数多くの噴火を記録している道内有数の「活火山」。
地域の東側に位置して、その裾野の広大な地域が上富良野にあたる。
噴火の時期によって被害の状況に違いがある。
この大正15年の噴火では、雪融け時期にあたっていて、
その融雪水が泥流となって地域を襲ったのですね。
自ら開拓者の息子であり、自作農であった当時の町長・吉田貞次郎は
村を放棄するか、再開拓するかの岐路に立たされたとき、
復興に向かって村をまとめ上げていったということ。
幸いにして地力は奇跡的な回復を見せてくれて、旺盛な需要にも支えられ、
ほどなく「地域再生」が計られていった。
そういった経緯が多くのひとびとの共感を呼んで、その後かれは
衆議院議員にも北海道から選出されていった。まことに有為転変そのもの。
現在わたしたちが見学できるこの建物は、
そういった地域の大変動を生き延びてきた歴史の証人でもある。
<記録写真と現在写真の相違は展示室増築による>
Posted on 8月 11th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅取材&ウラ話, 日本社会・文化研究
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