開拓初期には北海道では米作は不可能と思われていた。・・・
注連縄という宗教文化には、その素材として稲ワラが不可欠なので、
開拓三神を祀った北海道神宮では最初、この注連縄はどうしていたか?
もちろん伊勢神宮など注連縄のない神社もあるけれど・・・。
麻縄という選択肢もあるけれど、やはり米作と日本社会は底深く根がらみ。
残念ながら、最初期の様子を伝える鳥居や社殿の写真でも
注連縄の様子をうかがえる写真は見当たらない。
それどころか開拓初期には北海道では「縄」が主要な販売品とされていた。
本州以南社会では、縄というのは水田耕作の必然で発生するありふれたもの。
昔のテレビ番組などでよく見かける米作農家「夜なべ仕事」現金収入の定番。
北海道ではそれを高価な輸送費をかけてわざわざ本州から移入していた。
そういう北海道で開拓三神は首を長くして、注連縄を待っていたかも知れない。
北海道の神社建築と注連縄歴史についての研究はあまり聞かないので、
当面は想像を巡らすしかないでしょうね。
で、北海道神宮にフラヌイ注連縄を奉納している地元の中富良野神社に取材。
情報をいただいた好事家のTさんは「氏子でもないので・・・」と内気に
神社の神主さんにこの注連縄について尋ねられなかったそうですが、
わたしは、年来の「神札収集」趣味を活かして1,000円なりを出資するカタチで
お礼もお支払いし、根掘り葉掘り質問攻めにしておりました。
最初は境内周辺で子犬を散歩に連れていた女性に問いかけたのですが、
どうも話が通じやすく弾んでいたら、社務所に案内された。
どうやら、神主さんご一家の方だったようで、神主さんに質問バトンタッチ。
「あの、失礼ですが鳥居には注連縄ないですね」
「そうなんです、あれは野外に掛けるので1年持たず、降ろすんです。
ことしは、9月4日に注連縄が新規に奉納される予定」ということ。
氏子の「俵御輿同志会」が毎年制作して、奉納されるのだそうです。
北海道神宮への奉納の契機は、昭和28年7月に旭川の「上川神社」に奉納し、
昭和34年北海道神宮の前身、札幌神社に同じデザインの注連縄が奉納された。
この奉納がテレビなどで放映されることで話題が集中したとされます。
「で、この注連縄デザインは岩木山神社と瓜二つなんですが?・・・」
「それは、この中富良野には津軽からの農民集団移住があって・・・」
という想像通りの由縁だそうであります。
津軽農民としてやはり米作への思いが強く、入植以来コメ生産に勤しんできた。
「注連縄400kgの材料の稲ワラはその倍くらい必要なんですね。
コメは品種改良が進んでイマドキは背丈が短くなっている。材料確保がたいへん」
というような制作状況のようですし、さらに俵御輿同志会の高齢化も進んでいる。
中富良野神社では第1鳥居にフラヌイ注連縄が据えられる。
北海道神宮は本殿前の屋根付き「神門」に備えられているので持ちがいいようです。
4年に一度の北海道神宮注連縄交換はつい昨年できたそうですが、
今後の「文化継承」には、やはり危機感があるようです。
ちなみにこちらの本殿は鉄筋コンクリート製で、社殿には注連縄はない。
敷地内に勧請されている稲荷社は一般的な「中太り」の注連縄でした。
津軽と北海道、氏子たちの崇神の思いが海を越えた岩木山to北海道。
稲作と注連縄in北海道。日本人の精神性の中核・民俗性も確認できた次第。
Posted on 8月 13th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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