きのう書いたテーマは、ちょっと「あぶない」テーマだったかも(笑)。
国の「住宅政策」というものには、社会ニーズの変化を反映させるべきだ、
ということですが、縦割り行政機構では得てして狭い視点から、
人間のシアワセと建物のシアワセとの優先順位があべこべになる。
どうも、国交省的「論議」の枠組みでは「人間優先的」とは言えないと思う次第。
現代人の「よき暮らし方」と「住宅政策」には若干ズレがある。
よき暮らし方を考えるとき、その大きな領域として「移動の自由」がある。
それが制約された現在の状況で、その価値の重みを深く思い知らされる。
毀損してはじめてその「大きな価値」に気付くということか。
人類史で考えると、現生人類がかくも全世界に拡散を成功させたのは、
人間のシアワセが、必ずしも定住とその環境づくりに限定できるのではなく、
移動して世界を「見て、刺激され、啓発される」ということが、
かなり大きな「進化要因」ではなかったのかということに、気付かされる。
きのうのテーマとからんで言えば、移動の自由の拡大で「住」の「複数化」が
今後大きなファクターになっていくのではと直感させられています。
当然ですが住宅というのは、その土地に根付いて存在する。
人間はその住宅の中で、社会から隔絶された「自由な世界」を構築できる。
そこでは個人なり家族なりの「好適」な環境が自由に追求される。
住宅雑誌・メディアの基本的な探究テーマであろうと思います。
ただし、一方で人間の体の寸法は「立って半畳・寝て一畳」と
基本要件ではほぼ共有化できることも事実。
その意味で、「共有できる快適性」の普遍化というものも可能。
ホテルのような存在は、アメニティの共通言語化で可能になっている。
それをもう一歩進めると、セカンドハウス的な環境の構築も、
「移動の自由」の拡大深化によって、大きく可能性が膨らむ。
新型コロナ禍以前、世界的にLCによる移動の活発化が顕著になって、
国内移動についてもそのコストは劇的に下がり続けている。
その移動路線では、首都圏と各地域という路線のコスト減が大きい。
住が複数化したとき、どちらをメイン、サブと考えるかは両方とも考えられる。
移動の自由と居住の快適化という、従来思考では相反しそうなテーマが
究極的に「止揚」される環境が整ってきたように思える。
新型コロナ禍からいま、テレワークの進展という現実がある。
大都市中枢に集中することでの仕事上のメリットが逆にデメリットしてきた。
仕事の環境の自由度が高まってきて、どこにいてもある程度可能になってきた。
完全に自由というわけではないけれど、個性的ライフスタイルとの調和を図ることが
かなり両立可能になってきたといえる。
暮らしのテイストまで充足できる家と、社会的活動を担保する「拠点」住環境という
複数箇所に「住む」選択肢もかなり具体的になってきたのではないか。
人類ライフスタイル経験として特異的な「船乗り」の人生充足に近いものが、
かなり普遍性をもって実現されてくる可能性があると思うのです。
まぁ湊々に○○あり、という少し悩ましい問題もありますが(笑)。
このような生き方の選択肢の大きな広がり・進化について、
いわゆる「世帯」と「住宅数」という国交省的な数値基準では掬いきれない。
現代人の人生投資では新たな「アメニティ」に注目する必要がある。
そんな思いが、非常に強くなってきております。
Posted on 7月 30th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 日本社会・文化研究
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