きのうは久しぶりに東北フォーラムのWEBセミナーで情報交換。
テーマが「既存住宅流通における住宅履歴情報の大切さ」ということ。
やむを得ない事由から接触交流制約が長引いてきているので
久しぶりに交わされている情報のコトバひとつひとつがむしろ新鮮な疑問を
感じさせてくれるモノでした。
テーマ論議とはまったく別に、国交省的な情報発信データで
日本は新築マーケット中心で先進国一般に対し既存流通が格段に「遅れている」。
だから、その「流通を促進」させることで現状の新築偏重のマーケット構造から
長期的な業界構造を樹立させる、という「強迫観念」的な受け止め方で語られる。
国交省は固くこのように信じていることが、遠い過去のことのように聞こえていた。
新型コロナ禍で、情報の分断化が進んでいるけれど、
ひるがえって、じっくりと「再検討」するのには良い機会だとも思えています。
わたし的に、上述のようなこれまでの「業界常識」から距離が取れたことで
逆に新鮮な「疑問」がふつふつと湧き上がってきていたのであります。
新型コロナ禍が暴き出した世界構造、国連などは第2次世界大戦の戦勝国が
未来永劫その位置に留まり続けるのに好都合なように機能してきたこと。
端的な例として、そのひとつの組織WHOが「背乗り簒奪の五大国」中国によって
好き放題に組織を換骨奪胎されて来ている実態が誰に目にも明らかになった。
これまでの世界観「常識」が本当にそうであるのか、疑問を持たねばならない。
先述の新築と既存流通への考え方もまた、一度精査すべきではないか。
また「すでに日本の住宅総数は総世帯数を超えている」という「刷り込み」も
それを久しぶりに声で聞いてみて、大きな違和感を感じてしまっていた。
総世帯数:住宅数について、日本では単身世帯が非常に増えてきているので、
必ずしも世帯数が住宅の必要数を表す指標とはカンタンには言えないだろう。
いわゆる「世帯」とはかけ離れる「単身生活者」がさまざまな社会趨勢から
非常な勢いで若年層〜高齢層まで加速度的に増えている実態がある。
今後考えなければならないのは、この「世帯概念」がどうなっていくかが
実は最優先で論議されなければならないのではないか、と疑問を持った。
原因分析を行わないで結果としての数量把握だけで政策対応するのは、愚策。
いま進行の高齢化社会では、2地点居住などの需要も生み出す可能性も高い。
世帯数とひとくくりで、いわば「標準的家族形態」を想定するのは危険だと思う。
いまやひとつの世帯だけれど、北海道に本宅があり子どもは関西にいて
東京にも行動拠点がある、すなわち数軒の「住宅」利用という「平均値」感覚も必要。
伝統的な「世帯数」指標だけによるマクロ政策立案行為それ自体が
どうも現実と相当の乖離を産んでいるのではないだろうか。
新築と既築更新の住宅需要についても、
そもそも欧米の「個人主義」の長い伝統に対して、
日本は伝統的な社会価値感はそれとは相違する「ムラ社会」型であって、
そこに戦後以降急速に、個人主義的な「個人資産」型住宅価値が拡散された。
社会変容の中身の論議もなく、集中豪雨的に住宅が都市部で大量生産された。
欧米の強固な個人主義に基づく「長期優良住宅」概念が確立するまでには
日本はまだ長い経験値を必要としているように思えてならない。
日本社会の長期優良住宅は全国の有力農家住宅として厳然と存在し続けた。
それはムラ中心型社会形態に最適化された「長期優良住宅」だった。
健全な個人主義思想に基づく「よき住宅」概念はまだ日本では未成立。
従って「あるべき家族形態」も、まだはるか遠い霞のなかにある・・・。
むしろそう考えるべきではないかと、論議とは違うテーマが大きな渦になって
アタマを巡っておりました。う〜む、テーマを整理整頓しなければ・・・。
Posted on 7月 29th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 日本社会・文化研究
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