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【明治4年開拓期 札幌建設材木群の素性は?】


さてすっかり幕末の飛騨高山からの木材出荷、
「官材川下之図」に導かれて日本の建設業の歴史、建築素材の流れを
探究してきましたが、たいへん有意義な気付きになったと思います。
で、「北海道住宅始原期」への復帰に当たって最初に目にしたのが
この写真であります。
どこまでも「材木」の方に目が向いてしまうのは習慣の成せる技か(笑)。
しかし遠景に見えている札幌のランドマーク・藻岩山がうれしい。
こころなしか「お帰り」と言ってくれているようであります。

北大「北方資料データベース」での収納タイトルは
「札幌本陣ヨリ南山ヲ望ム」となっておりまして、
たぶん現在の札幌市中央区南1条東1丁目付近から南西方向を見た様子。
そうすると写真手前側は創成川畔という位置関係になりますが、
大量に材木が留置されている様子であります。
最初期の札幌都市建設ではそんなに大量の建設がされたわけではないけれど、
それでも数十人規模の「職方」が動員されていたことを考えれば、
その原材料は絶対に不可欠であり、供給される必要がある。
職方にはそんなに多くの木こり職人さんがいたという記録もないし、
原始林とはいえ札幌周辺原野から伐りだした材だけに依存したとも思えない。
それに創成川周辺に留置されていることから考えて
舟運でこの地まで運搬されてきたことが見て取れる。
こういう場合、江戸などの大消費地では「木場」という木材貯蔵プールが
設営されることが思い浮かぶけれど、札幌ではそういう場所は
どうも記憶には乏しい。
この地までの運搬ルート自体は水郷的だった石狩川周辺の茨戸あたりから
この「創成川運河」を伝って運ばれてきたものでしょう。
あるいは、近辺には「豊平川」も流れていて創成川と連結していたから
豊平川や茨戸水郷が「木場」の役割を果たしていたか。であれば写真に見るような
材木群はすぐに建築現場に運ぶための「一時置き場」であったのかも知れない。
しかし今度は、こうした材はどこから運ばれてきたかの問題。
初期の札幌都市建設では岩手県の山から出荷した材が秋田県能代に集結され
そこから北前船で運び込まれたと言われる。
材の現地調達が原則ということからするとやや異例。
しかしまぁ、開拓初源期にはやむを得なかったか?
さらに想像するとそういう材の出荷発注を最初の開拓判官・島義勇が
上司に無断で「契約」してしまって開拓使財政に齟齬が生じた?
あるいは「経費が掛かりすぎる」と処断された島義勇の進退にも関連するのか?
1枚の写真からもいろいろな疑問が沸き立ってきます。
とくにほんの少し前の時代の幕末期の木材生産流通を研究してくると
余計に類推が働いてきます。さてまた「北海道住宅始原期」研究頑張ります。

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