首里城が焼失した。
家族が移住していた経緯があって沖縄へ何度も往復していた。
首里城も数回は見学していたけれど、とくに写真には収めていなかった。
名にし負う観光地であり、回を重ねるごとにそうした気持ちが消えたのかも。
北海道のひとが道庁赤煉瓦建築をあまり写真には収めないみたいなものか。
テレビを見る習慣がほとんどなくなったので、今回のニュースは
WEBで知った。沖縄と建築という類推から建築家の伊礼智さんの
FBページでの反応なども知った次第。
建築にはさまざまな要素があるのだろうけれど、
この琉球王朝時代の象徴建築はひとびとのこころに触れていることが明瞭。
ある意味、沖縄そのもののアイデンティティという受け止め方。
わたしも一瞬、沖縄が失われたという思いを抱いた。
伊礼さんの言葉では「建て直すしかない」という意志的なフレーズが
とくに印象に残った気がしました。
首里城建築は数度の「再建築」を繰り返してきているとされる。
京都の金閣も放火による悲しい焼失を経験してきている。
建物は消えるけれど、人々の記憶は決して消えない。
令和の時代の再建築として復活を期待したい。
こういう「記憶の建築」にはそのような役割があるだろうけれど、
写真はわたしの好きな歴史民俗博物館(千葉県)「江戸橋広小路模型」。
こちらはレプリカなのに、どうもWEBでの検索でも
その名前が通っているという不思議な存在。
江戸期の経済の実態を視覚化した展示として深く驚かされるもの。
生きていた「建築群」リアリティ、江戸経済そのものみたいな。
城郭建築というのは象徴性で永続するものでしょうが、
その「城下」街というのは、きわめて流動する存在。
戦争などがあれば、その都合から最初に焼き尽くされる存在。
しかし直近の日本最後の国内戦争である戊辰戦争では
薩長もこの江戸の生きていた経済実態そのものには手を出さなかった。
いや、出せなかったというのが真実であるのかも知れない。
明治新政権の大資金源は大坂の資本家たちだった。
かれらは江戸の「経済」を無傷で得たかったに違いない。
いまこのレプリカからつたわってくる民衆的な経済実態には目を見張る。
秀吉が着目した江戸の水運優越性が人工的大都市の成功をもたらした、
その実態そのものがつたわってくるものだと思います。
よくみると、市街の中心施設として「火の見櫓」がみえる。
繰り返された江戸の火災災害から都市自身が自衛していた。
街づくり思想として先人たちからさまざまな警句を教えられる。
Posted on 11月 1st, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 日本社会・文化研究
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