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【「知はタダ」はどこまで拡大するのか】

わたしは図書館というものはごく最近までほとんど利用したことがなかった。
生きてきて、知に対してお金を使わないということを
なんとなく「それでは知を身に付けることはできない」のでは、と
固く信じ込んでいたような気がする。
だからこそ、新聞を定期購読して本を買い続けてきたように思う。

最近、わが家のすぐ近くの「札幌山の手図書館」をよく利用する。
たくさんの知の集積とタダで接することが出来る。
そのように得られた知見をもとにインターネットで再確認しながら
思惟を進めている自分がいる。
総じて「知はタダ」という世界にどっぷりと浸かり始めている。
インターネットの普及に先駆けて、図書館という存在は
基本的にこういう「知はタダ」の世界を広げてきているといえるのだろう。
現代世界のスタートの時に教育の「機会均等」のようなことがあったのか、
知の拡大に経済的な差を設けてはいけない、みたいな
そういった思想が根強くあったのかも知れない。
いま、基本的にはインターネットの世界ではかなりこの「知はタダ」が
世界中で大きく拡大し、常識化してきている。
しかし、当然だけれど知はタダではない。
それを提供するためにひとは膨大な「生産コスト」を支払っている。
そのうえで多くの人に「拡散」するためにメディアなどが存在し、
その維持コストはさまざまな形で負担されてきていた。
しかし、膨大な知の蓄積はいまほとんど、タダで得られるようになってきた。
少なくとも、これまでのように本という流通形態で取引されることが
基本的には減少する局面を人類は「はじめて」見ていると思う。
この趨勢が進展していった先に、どのような知の循環システムが出現するか、
まだまだ先は見通せていないように思う。

中国の共産党専制独裁では、AIを徹底活用する「顔認証」システムが
盛大に進行しているとされている。「顔パス」が実現しようとしている。
たしかに「便利」ではあるだろう。
全国民を監視するシステムが完了寸前になってきていて、
こういう方向が人類進歩の基本趨勢だという論説まである。
しかし香港ではこうした情報支配に対して「マスク」での人権防御が
先端的に進んでいるともされている。
「知はタダ」という趨勢の先に、どうもこのような深刻な事態が
未来予見的にみえてくるのではないかと、不安がよぎることがある。

<写真は鹿島神宮です。>

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