本日は歴史建築への雑感です。
写真は仙台市博物館展示での「陸奧国分寺」模型。
手前から「南大門」があって、正殿に対して回廊まで配置されている。
わたしはこういう歴史建築の研究者ではありませんが、
この「回廊」は、建築的意味合いとしてかなり重要ということだそうです。
周囲を塀で囲んだほぼ正方形の幾何学形に土地を「街割り」して
内部にいろいろな建築を配置していくのは、古格なアジア的権威建築様式。
宗教的、あるいは政治的空間というものが、
ある「都市的整然性」を目指しているように感じられます。
江戸期・光格天皇の代の時に京都御所が火災で焼失したとき、
当時の江戸幕府の国家予算が90万両あまりだったのに、
再建費用として80万両の規模の再建が行われたのだそうです。
で、幕府としてはなるべく費用を抑えたいところ、
光格天皇は朝廷の威信復興をめざして、より立派な建築再現をめざした。
そもそも消失前には、この「回廊」建築は省略されていたのだそうですが、
朝廷権威復興のために、絶対に再建させたかったのだとされています。
この回廊の再建を認めるかどうかが、幕府と御所側とで
対立的なテーマになったとされているのですね。
朝廷側としては、それまで簡略化していた「王朝的行事・しきたり」を
きちんと再興したい思惑があったとされる。
朝廷行事というのが古式に則って、整然と行われることは
そこから「任命」される将軍権力にとっても有益だろうと説得したようなのですね。
回廊が、こういう古格な行事演出装置として
大きな役割を持っていたということのようなのです。
いわばアジア的権威性の揺籃装置というようなことでしょうか?
・・・というような情報は先日放送されたBSNHKの「英雄たちの選択」から。
どうも最近、光格天皇という方の事跡がクローズアップされてきている。
この方は、その先代にあたる後桃園天皇が、女子ひとりを
残されて亡くなられた後、6代前の天皇出自の「男系」宮家から即位した。
母親はごくふつうの庶民でしかも正妻ではなかったのだそうです。
そういう「偶然」に選択された天皇として、むしろ天皇権威について
より古格な復元を目指すようになったというのです。
で、「遠の朝廷」の一部を構成する建築である陸奧国分寺でも
権力を示威する目的性が高く、回廊という建築装置は、
国家宗教施設建築として、儀式などの空間装置として
きわめて重要な役割を果たすものなのだといえるのでしょう。
奥州での金の発見という国家的慶事のその発源地として、
陸奥国という地域は日本国家にとって格別の地域ではあったのでしょうが、
こういう国分寺施設としてはほぼ同様の設計思想だっただろうと思える。
まぁ江戸期の朝廷再建とはかける予算も違うだろうけれど、
「格式・設計思想」としては、同様の考え方だったのでしょうね。
Posted on 5月 16th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 日本社会・文化研究
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