上の写真は、左が関東北部で発見された縄文の土偶で、
右が今回アンデス展でみてきた造形物。
このような一連のかれらアンデスの人々の造形感受性を見続けて
わたしには、日本の縄文との強い共鳴の「呼び声」を感じた。
下の図は、同展で示されていた「現生人類の拡散過程図」。
ちょっと長いけれど、説明分を引用したい。
〜南北アメリカ大陸にはおよそ1万5000年前に人類が浸入した。
ゲノムの研究からは,東アジア集団やヨーロッパ人と祖先を共有する人たちが、
23,000年ほど前に、当時陸地化していたベーリング海峡(ベーリンジア)に到達し
そこで他の(人類)集団と隔離されて8,000年間ほど暮らしていたことが
明らかになっている。新大陸に入った集団は13,000年前頃に、
現在の南北アメリカ大陸に分布する集団と北アメリカ大陸に限定して
居住する集団の2つに分岐した。
従来は、北米大陸への拡散は巨大な氷河が割れて出来た内陸の回廊を
利用したと考えられていたが、最近の考古学研究からは15,000年前になると、
海岸線を南下しながら拡散し、短期間で南米大陸の先端まで
ルートを使ったことが示されている。
南米大陸における最初の拡散は、海岸線を伝ったものだったのだろう。
アンデスでも最古の遺跡は、海岸地域からみつかっている。〜以上。
日本列島での石器時代痕跡は20,000年前後までは遡れるとされる。
この人類拡散ルートを考えてみると、アフリカからの「アジアルート」も
たぶん、海岸線ルートが常識的なのではと考えられる。
陸上の大型肉食獣からの脅威を避けるにはその方が合理的。
しかし一方で大型動物、マンモスなどの狩猟に特化した人々は、
内陸ルートをたどった可能性が高い。
そういう人たちがヨーロッパ系と混血するなどもしたのではないか。
日本列島ではこのアンデスに行った人たちとほぼ同時代に
それまでの狩猟採集のキャンプ的な「遊動」生活に対して
海生動物の定点的漁労と、照葉樹林からの木の実の採集という
縄文的定住が始まってくる時代に相当する。
そう考えれば、アンデスと縄文は2万数千年ほど前に分岐したと推定できる。
定住の結果、そこらへんから「住居」も始原がスタートするのだろう。
建築で言えば、かれらアンデスは石器利用が極限的に進化していた。
また、太平洋という大きな隔絶が存在するけれど、
かれらアンデスの人々の文明をみる印象として「太陽信仰」が大きい。
日本の古層を規定する文化にも、アマテラスという太陽神。
このふたつの文明の造形感覚を見続けていて、
やはり人間としてのDNA的直感が刺激される。
2万年という長い時間も世代更新が15年と考えれば、1,300世代ほど。
遙かではあるけれど、やはり繋がりはどこかで感受可能。
そんな想念にずっととらわれ続けてきております。いかがでしょうか?
Posted on 1月 24th, 2018 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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