司馬遼太郎さん本人としては可能な限り事実に即したと判断した結果としての
明治の総決算としての日露戦争に至る「坂の上の雲」を読み終えた。
明治は、今に繋がるニッポンという「国」のスタート。
それまで、江戸や大阪の町人や、各藩に所属するとしか自己認識がなかった
この列島社会の人々に、突然真空的な「国家」や「国民」が現れ出た。
それまでは寺子屋で自分の生きるよすがとしての
読み書き算盤は習っていたけれど、
明治になって、国家が国民に教育を施すという施策を打ち出し、
教育勅語をもって、国民であることの自覚を植え付けた。
それは世界に新興国家として認識を訴える大きな意志の元に、
多くの人々がほとんど無私の精神で国民であることを受け入れた。
明治はひとびとのそうしたピュアな思いの上に成立した。
癸丑庚寅〜きちゅうこういん〜以来、と明治の指導者木戸孝允が繰り返して
言っていたという弱肉強食帝国主義との遭遇の時代。
50年以上にわたった大動乱の最終的決着として、
国家防衛戦争として主観的には位置づけられてこの戦いはあった。
そしてバルチック艦隊への勝利として、作品は締めくくられ、
無私に彩られ、坂の上の雲を追った輝きのままに明治の終わりを
残照として浮かび上がらせて、この歴史小説は終わっている。
司馬さんの作品としては太閤記に似た虹色の終わり方だと思う。
秀吉の成功がそのまま毒になってしまった歴史と重なるような
その後の40年、この国が自己をコントロールできなくなったことについて、
書くことをためらったのか、司馬さんはそこに小説としては踏み入らなかった。
司馬さんの歴史小説では、やはり日本人を考えられるということが大きい。
わたしたちの骨身を構成しているものやことの始原や推移が見える。
だから、歴史を考えることは、そのまま現在を考えることに繋がる。
わたしたちが今日このように常識として考えていることは、
必ず先人の経験や合理的に判断した結果が反映されたもの。
作品を読みながら、しかし、常に現代へと繋がる部分を見ていた。
いまは、そのあとの1945年のカタストロフを超えてから71年。
アメリカという超巨大軍事国家による占領と、日本無力化政策によって、
これもまた、真空的な「平和国家」が継続してきた。
しかしいま、トランプ大統領という不確実要素が国際情勢の基底に出現した。
素人と言われる彼もまた、いまのアメリカの戦争は継続するに違いない。さらに
いまは基底としてのエネルギー爆消費文明、地球環境問題が迫り来る世界。
エネルギー消費の抑制が国家間争闘を超える大テーマだけれど
超大国指導者としてのトランプは、そっちの方向を指向してはいない。
癸丑庚寅〜きちゅうこういん〜以来、というのは、もう一方で、
明治の時代にはその輝きだけが見えていた「坂の上の雲」はしかし、
そういったエネルギー爆消費文明の受容のスタートでもあったのだろう。
どうやったら、こういう時代・リアリズムとしての「坂の上の雲」は描けるのか?
だんだんと現在状況へと、煮詰まってくる気がします。
Posted on 11月 28th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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