先週の出張では、白川郷などを訪問しましたが、
大好きな高山の町家建築群もあわせて見てきました。
高山の町家建築は、奈良や京都の寺社建築や街並みを
飛騨国としての王朝政府への一種の「税金」である建築技術者の派遣が
「飛騨の匠」として日本中に知れ渡った故事の痕跡とされます。
山地ばかりの飛騨国は、木材供給地ではあったにせよ、
農地可能な河川流域面積は少なく、貧しい国だったのでしょう。
しかし、いかに木材産地とは言え、その木材の出荷には
大きな河川もなく、たいへんな輸送困難が伴ったことでしょう。
そうした、いわば出稼ぎに派遣されて帰って来た大工たちが
その技術力に加えて、都で洗練された建築デザインを身につけ
それを自分たちの国の都市建築に活かした結果だとされています。
そういうなかでなぜ、大型木造建築の「技術力」がこの飛騨で高まったのか、
いろいろな想像が沸き上がってきます。
三内丸山に代表される縄文以来の大口径材の木組み技術が
気候寒冷化によって中部山岳地帯まで南下し
この地周辺にも残る縄文遺跡群を合わせて考えると、
そのようにこの地域に集積積層してきた技術資産であるのか。
あるいは、ひょっとして気候条件が厳しい北海道が、
木造住宅技術の高断熱高気密化の最先端地域になったことと
アナロジーされるような古代における事態だったのか。
そんな雑感を抱きながら、街歩きしてみたのですが、
今回は、建築家・丸谷真男さんからうかがった、
町家の階高について、比較しながら見ていました。
いわゆる日本の町家建築では、通りに面した階高は1,5階相当に
低く抑えられて街並みが構成されているということ。
通りに面した部分は2階がぐっと低くなっているのですね。
こんなふうに通りに面した2階は座った高さでの利用が
一般的に考えられていた。
で、一方、最近建てられた町家には2枚目の写真のように
総2階建てという建物も多い。
で、街並み景観としてみるとやはりそのアンバランスに気付かされる。
1枚目の写真のようなきれいな統一感が、ところどころで断絶している。
このあたり、街並み協定というものがそこまで想定していなかったのか、
立地利用として、そこまでの制限ができなかったのか、
大きな疑問を持ってみていました。
住宅のプロポーションを考えるときに、
高さというのは、それなりの1階面積の大きさがなければ、
2階建て以上の建築では、どうしてもズングリムックリした形になって
美しいプロポーションにはなリにくいという説も聞いています。
少なくとも総2階よりは、一部2階の方が、屋根構成で調整して
美しさも演出できるということだそうです。
そんな風に考えると、町家の1,5階建てという民族的知恵は
なんと卓越した叡智であるのかと気付かされます。
Posted on 2月 26th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅取材&ウラ話
コメントを投稿
「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」
You must be logged in to post a comment.