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戦後日本の原点 丹下健三・広島平和記念館

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家族で見学いたしました。
「日本人なら、見ておくべきだと思う」と子どもたちは言っていた。
12月29日という年末の慌ただしさの中ですが、
しかし記念館内部は、世界中から来た人たちで大混雑。
わたしたちは、この兵器が生身の人間たちに投下された
そのあとの世界を生きている。
2度にわたった原爆のこの投下の後、
世界のひとびとの心の抑止力は、今日までカタストロフを阻止している。
日本の、そして世界の原点として、この記念館が果たしてきた役割は
まさに人類的なのだと思います。
日本の不可逆的な出発点は、ここにある。
どんな困難が襲ってこようとも、最後に依って立つべき場所はここだと。

わたしの家系伝承では、江戸期、広島県福山市郊外で
ご先祖様たちは住み暮らしてきたと言うこと。
わたしの叔父は、終生広島訛りが抜けませんでした。
きっと多くの血縁のひとたちも、この惨禍に遭遇しただろうと想像します。
ピカドン、という言葉は、この人類的惨禍の言霊として
誰言うともなく、わかりやすく状況を伝える言葉として使われた。
そういった人間の肉声、語感が果たした役割は巨大だったと思います。
いまふたたび、見学の機会を得て内語を得る思いでした。
75年間は草木も生えないだろうと言われてきた広島の街、
しかし、この惨禍の後、すぐに人類的な人道努力も始まり、
また、自然は驚異的な復元力を発揮して、
翌年すぐに緑が繁茂していったということ。
生起した惨禍はすさまじく恐ろしきことだったけれど、
自然と人間の復元力もまた、素晴らしいものだったのだと思います。
敬虔にこの惨禍を内語として刻印しながら、
不撓不屈のたくましさで、生き延びていかなければならない。

建築としては、丹下健三さんのモニュメンタルな建築。
戦後ニッポンの建築として、この記念館や
東京オリンピックの代々木競技場の建築を残された。
まさに国の転換期に生きた国家アーキテクトだったのだと思います。

さて、さすがに家族旅行も、
3日間、長距離移動が続いたので、きのうは
広島市内・周辺でのゆったりとした日程に。
わたしは運転疲れを癒すのに、昼寝なども取ったりしておりました。
どうしても日本人の「休暇」は、大忙しになりがち(笑)。
自分で書いていてもこの自家撞着は可笑しいですね、
休むのが忙しいというのは、まさに笑える。
やっぱり休暇は、ゆったりと過ごしたいと。
歩いてブラブラするのには、広島の街は市電もあって楽しい街。
午前中には厳島神社にて、シカと戯れたりも。
しばしの中休みを得た1日でありました。

<外観写真は現在工事中につき、以前撮影の資料写真>

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