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贖罪意識から心情論に至る病

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知人の考古学研究者に瀬川拓郎さんという方がいます。
わたしの高校の後輩になるのだそうですが、
実に素晴らしい学問的な業績を上げ、また、著作も多くの人に読まれている。
その研究事跡について、わたしはたいへんリスペクトしています。
かれは、旭川博物館の「主幹」として勤務されていますが、
いまやアイヌ研究の第1人者といっても過言ではないと思います。
かれの「アイヌ学入門」という著作の前書きでは、こんな記述がある。

アイヌを単純に「自然と共生する民」と評価してしまうと、
交易民として生きてきたかれらの複雑な歴史の意味を
見失うことになりかねません。そもそも「自然と共生する民」は、
閉じた世界に安住してきた未開で野蛮なアイヌという
負のイメージを肯定的に評価するために、それをただたんに
裏側からみたものにすぎないのではないでしょうか。(以上、引用)

なにか、これまでモヤモヤしていたものがクリアになる一節でした。
先日も、敬服しているある学者の方と話していて、どうも
「アイヌ=自然と共生する民」という素朴な刷り込みに囚われていた。
そこで、瀬川さんの著作を1冊、プレゼントしたところ、
その実証性に満ちた論旨をすぐにご理解いただいたようでした。
近作「アイヌの歴史」では、

「エコロジカルなアイヌ像ではなく、宝を求めて異文化と交流しながら
激動の世界をしたたかに生き抜いてきたアイヌの歴史を提示したい。
このことは、アイヌの歴史に自然との共生を学ぼうとする態度を
否定するものではない。しかし、多くの場合のそれは裏付けを欠き、
「自然」破壊を進めてきた「文明」の贖罪意識や、アイヌを「自然」の一部と
みなすことで侵略を正当化してきた「文明」の贖罪意識といったものが
一体になった、心情論でしかないようにみえる。」
と、書いている。

さらに、夭折したアイヌ人女性・知里幸恵さんの書かれた
「アイヌ神謡集」の序文に触れて、
~その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。
天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されて
のんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、
なんという幸福な人だちであったでしょう。(以上、抜粋)~
こうした美しい文体から紡ぎ出される文学世界観が多くのひとに
前記のような贖罪意識から、無意識の前提として刷り込まれていった。
瀬川拓郎さんは、これに対して実証的態度で
「もちろん、
このような一切の苦悩から解放された楽園が実在したわけではない」
とハッキリと書かれている。
いま、多くの学者のみなさんと交流する機会があるのですが、
こういった非実証的な刷り込みに囚われている傾向は、
あらゆる領域の学問のみなさんに共通してあると思います。
どうも「いい人」でありたいがために、実証性を顧みない傾向が
むしろ学者さんの世界に広く存在するのかも知れない。
その弊害が、さまざまに現れてきていると思っています。

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