きのう、最近のデジタル化してきた読書について
若干書いたのですが、面白い反響もありました。
これまであんまり読書習慣がなかった方が、
電子デバイスで読書ができるということに興味を持って
「ほ〜〜、タダで有島武郎さんの作品が読めるのか」と喜んで、
さっそく環境を構築して、読んでみているというコメント。で、さっそく
「言い回しが、普段見ない言い回しが多数で、面喰っているのも新鮮なところ(笑)」
といった感想を寄せていただきました。
そうですよね、わたしも久しぶりに、百年前の「純文学作品言語」を読んでみた。
こんな言い方や、表現方法に出会うのは、大江健三郎以来くらいかな、
っていうような「邂逅」感もあって、妙に面白みを感じていた。
いわゆる「純文学」の危機が言われ、作品も輩出されにくくなってきている。
そんななかでこういった文学作品を読むと、目を見張る思い。
百年前だけれど、瑞々しい感受性が受け取ったその時代を生きた人間個性は、
そこに生きていま存在するかのように、実在感が漂ってくる。
描かれる対象人物、この場合、木田金治郎さんという人物造形は、
一体の彫像、そしてその内面世界をのぞき見るように感受されてくる。
たぶん、描かれた木田さんも、
自分自身以上に深く把握されたという実感を持ったに違いない。
そう(笑)、たぶん、自分のことは自分では見えにくいもの。
そういう文学的真実への追究のための「道具」として
難解さに満ちた言語が、まるで彫刻のノミのように使われるのは理解出来る。
なんですが、しかし、
およそ、150年前に明治の維新を迎え、
そこから「西洋近代」が日本社会に雪崩のように導入された時代、
コトバづくりから、日本ははじめられたと言われている。
この時代に「文豪」と呼ばれる人物が輩出されたのは、
言文一致の追求などを通して、コミュニケーション道具としての日本語が
「ものごとを怜悧に、精緻に表現し、明瞭に伝える」というように
高い意識を持って民族的に作り上げてきたことをあらわしている。
作品文学の道具と、こういう明瞭さを追求する道具には
目的の違いがあると思います。
まぁ、密教と顕教との違いと言えるような違いがそこにはあるのだと思う。
いわば論理を営々と構築していく世界と、
精緻なデッサンから、空想の羽を伸ばした架空の世界の違い。
そういった違いに、ゴツンと久しぶりにぶつかって
ある意味での清々しさとともに、違和感も感じさせられた。
で、こういった文体世界を、国語の教科書で教材として勉強もさせられた。
ちょうど写真のようなノスタルジックな「木造校舎」で。古っ!(笑)。
まぁ、建築の世界でも工学部的構造構築の面と
「どうつくるか」の創造力発露の面とがあるように、コトバの世界にも
違う側面があると言うことなのだろうと思う。
しかし、建築の世界のようには、コトバ教育の世界では、
この両者は明瞭に意識的に仕分けされていないのではないか。
論理構築的な、明瞭性を追求するような文章力をあくまでもベースにして
それとは、まったく違うテーマをハッキリ示してから
こういった文学的道具としてのコトバを教えるべきではないのか、
そんな雑念が、ここのところ、アタマの片隅でうごめいております(笑)。
単なる妄想でしょうね・・・。
Posted on 7月 23rd, 2015 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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