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五所川原・立ねぷた

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五所川原の街を歩いていたら、発見した大きな建物。
予備知識もなく、建築探訪のつもりで入ってみたら、
これが、五所川原名物・立ちねぷたの展示館になっておりました。
立ちねぷたは高さが20mもあり、
合計3騎あるのだそうですが、それをしまっておく場所って
確かに大変だろうと思われますね。
そんなことで、公共事業として、市の施設なのか、
こういう大きな建築を作っていると言うことだそうです。
津軽北部地方って、今回の訪問でいろいろ興味も湧いて調べたのですが、
考古年代では遮光土偶で知られる亀岡遺跡での土偶生産。
それから時代を下ると、五所川原地域で対北海道との交易の主要産品となった
「須恵器」の生産。そして、このような巨大ねぷたの製造と、
なにか、ものづくりの伝統のようなものが感じられてなりません。
須恵器について、Wikkipediaを見ると、
9世紀末から10世紀にかけて操業した五所川原窯で、津軽平野にある。当時日本の支配領域の外か外縁にあった五所川原窯からは、地元の津軽半島だけでなく、北海道まで製品が送り出された。
という記述が見られます。
須恵器はヤマト朝廷権力の独占的な陶器生産技術なので、
それがこの時代の五所川原に存在したのはどういう経緯なのか、
十三湊にあった福島城との関連を考えると、
整合性がありそうな気がするのだけれど、王朝側の正史には、
福島城が古代城柵として築かれたという記述は見られないということ。
むしろ、北海道に本拠を持つ「擦文文化人」〜アイヌ以前の北海道人〜の
城柵づくりではないのか、という指摘が成されているようです。
ちょうどこの時期というのは、直線距離にして200kmくらいの
胆沢城地方で、安倍氏が大きな勢力を築いていた時期とも重なります。
飛躍して考えれば、胆沢城地域の有力者となった安倍氏勢力が、
胆沢城の職工を五所川原に連れて行って、
須恵器の工房を作らせて、北方勢力に対しての主要交易品として生産した。
それが、大量の鷹の羽とか、海獣の皮革、などといった蝦夷地交易になって
安倍氏の富強を支えたのではないか?
いやむしろ、安倍氏というのは「擦文文化人」との関連性が高い氏族だったのではないか?
というような疑問、仮説が頭のなかを駆けめぐってくる次第なのです(笑)。
ということなのですが、
確かに、五所川原の立ちねぷたの様相を見ていると、
あまり純日本的文化のにおいは感じられない部分がある。
より、土着的で、縄文的な感覚が感じられる、
と、考えるのはわたしだけでしょうか?
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