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ジョブズさん本の読書感想_2

若い日の精神の彷徨。

きのうの続編であります。
ジョブズさんはわたしとも同年代なので、
かれの若い頃の雰囲気はリアルタイムであり、
あぁ、やっぱり同じような空気感に満たされていたのだな、と思えます。
ドラッグまみれになっていた精神の時代を公言して憚らなかったそうですね。
このあたり、州の法律はどうなっているのか、
時効でもあろうし知るよしもありませんが、そういった雰囲気の時代であって
多感な時期をそのように過ごしたということ自体は、よくある精神史。
ただし、かれの場合には、出生にまつわる精神の不安定感が
常に顔を覗かせていたといえるでしょう。
そういう彷徨の中から、
インドに行って、修行に似たようなこともしていたのだとか。
私生児としてこの世に生を受けたということからの
精神の解放を求めて、いわゆる欧米的なキリスト教的な救済は
かれの生には似合わなかったのでしょうね。
キリスト教的価値観では非正規な出生であり、厳格には離婚も認めないわけですから
そういった世界観では、十全なこころの安寧は得られるわけもない。
そういったことから、むしろ東洋的な哲学に救いを求めるまでは
ある意味で、自然な流れのように思われます。
かれの結婚式は、仏教的なスタイルで祝福され、
食べ物の嗜好的にもすし、とくにあなごが数回記述されていましたが(笑)、
そういった料理を好んだというあたり、禅などの思索傾向に傾いていたのでしょうね。
かれの製品への立ち向かい方には
こうした感覚が非常に先鋭に表れていると思います。
そもそも、コンピュータのデスクトップの考え方には
こういう端的な精神性が反映されてもいると思います。

ただ、わたしたち日本人からすると、
かれの心の中の禅的なものは、非常に動的であって、
しかも非常に排他的な、純粋性を希求するという感じが強い。
やはり、そのあたりは多民族社会のアメリカというベースがそのような雰囲気を
育んでいるということが出来るでしょうね。
わたしたちの禅的な世界には、あのような攻撃性は
見ることができないと思います。
しかし、こういった側面は思索研究のテーマとしては、
今後、もう少し深めて論議されていって欲しいと思いますね。

<たぶん、もう少し続きます(笑)>

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