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【江戸城から開拓使本庁へ 建築技術者のDNA移植】


さて「北海道住宅始原の旅」シリーズであります。
前回は、写真下の「開拓使本庁」をご紹介しましたが、
わたしのはるかな「導師」故・遠藤明久先生の論文を研究しています。
「開拓使営繕事業の研究」という労作の論文。
明治初年における開拓使の建築工事を丹念に考証されている。
開拓使の工事は明治2-3年の島義勇判官の着任早々での罷免の影響から
明治3年中は既存仕掛かりを除いて全体として緩慢な動きになった。
一方で実質的な開拓使の主導者・黒田清隆が明治4年に洋行し、
そこでケプロンなどの御雇外国人を招致し、
開拓使の建築をアメリカの基本建築技術に沿った「洋造」に決定した。
基本方針・国家意志が定まったことで明治4年末から大きく動き出す。
事実、島義勇には官舎の建設について思想らしきものは垣間見えないのに、
明治5年に着工し明治6年に竣工する「開拓使本庁」は明瞭な
アメリカンスタイルの「洋造」建築になっている。
この基本的方針を表す庁舎、その営繕工事の実質的推進技術者について
遠藤先生は歴史の掘り起こしを行われています。

そこで浮かび上がってきたのは、岩瀬隆弘という人物。
かれは旧幕臣であり明治新政府・民部省土木司、大蔵省営繕司の職員録に
その名を残したあと明治4年7月に開拓使に奉職し9月に札幌に着任。
もっとも象徴的建築としての開拓使本庁や琴似屯田兵村工事がこの時期行われ
その2年半あまり後の明治7年3月に札幌を去って帰っては来なかった。
慣例として、旧幕府当時の「履歴」についてはこれを記載しないという
文書上の決まりがあったそうで、旧幕府時代の仕事は詳らかではない。
開拓使奉職時点で53歳だったというので、生年は1819年前後。
脂は乗りきってすでにかなりの「高齢」時点での北海道勤務。
遠藤先生の掘り起こしでは屯田兵屋の建つ「琴似町史」の記述の中に
「(屯田兵屋の)設計を担当した人は、もと幕府の御普請方で江戸城西の丸
本丸の火災の後の新築造営にあたった、維新当時の日本建築の
権威者である岩瀬隆四郞という人で、この人は開拓使東京出張所の
営繕係の権大主典であった。」という記載があると。
<この当時は名前は幾通りか通称なども使用していて、
岩瀬隆弘さんも、別の記録で「隆四郞」名を使っていたということ。
注)権大主典というのは明治初期の官職名。係長とかに相当するか。>
さらにこの岩瀬さんについては、「札幌昔譚第二巻」に岩手県の士族で
開拓使に奉職後、屯田兵になった栃内元吉さんという方の談話で
「岩瀬さんは建築の大家なり。翻訳などにより外国建築にも通ず。」
というような逸話が遺されているのです。
これらの伝聞資料について遠藤先生は厳密性には疑問もあり断定はできないと
されています。学者としてさすがに実証性を重視される姿勢。
このあたりの検証については碩学のみなさんに期待したいのですが、
メディア人間として想像の翼を広げさせていただければ、
かれは開拓使本庁という象徴的建築の工事最盛期に
この「洋造」建築の発注者側担当官として任に当たっていたのであり、
その技術者としての技量を買われて開拓使に奉職したと考えるのが自然。
また、記述にある幕臣時の「江戸城西の丸の火災」は、
1852年(嘉永5年)西の丸御殿を焼失
1863年(文久3年)本丸、二の丸、西の丸の各御殿を焼失
1867年(慶応3年)二の丸御殿を焼失(この年、大政奉還)
といった事実がWikipediaにあります。
かれ岩瀬が関わったとすると、1852年であれば33歳時点であり、
最後の1867年では48歳ということなので担当として現役バリバリでしょう。

旧幕府と新政府、開拓使をDNA的に連続させる人物ではと思われてならない。
どうもいろいろな想像力が刺激されるような史実だと思います。

<おっと、だいぶ長くなったので、あした続篇を書きます(笑)>

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