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【黒田清隆 北海道で住宅革命アメリカ建築様式導入】

明治の初め時期というのは、やはり戦乱さめやらぬというか、
幕末戊辰の内戦という修羅場をくぐってきているし、
同時進行でロシアによる樺太への侵略事実も生々しく勃発していた。
そういう時代にあって北海道の建築が手掛けられていった。
まさに戦争と権力闘争が生々しく展開するなかで建築の方向も決まっていた。

明治維新の内戦を現場で戦い抜いた薩摩の中核人物・黒田清隆が
開拓使の実権を握り続け、その方向性を決した重要人物。
かれは1840年生まれ。1863年の薩英戦争を戦った。
薩長同盟の局面でも「使者」の役を担っている。
1868年の鳥羽・伏見の戦いでは薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。
その後、北陸・会津などの維新戦争も最前線で戦い続けた。
1869・明治2年の箱館戦争では旧幕府軍との最後の戦いの総指揮を執った。
その年の11月に結婚している。29歳。まことに青年武人そのまま。
ロシアの圧力が増したため、明治3年・1870年5月に樺太専任の開拓次官。
7月から樺太に赴きロシア官吏と外交し北海道を視察して帰京。
10月20日に樺太を放棄し北海道開拓に本腰を入れなければならないと建議した。
1871・明治4年1月から5月まで、アメリカとヨーロッパ諸国を旅行。
旅中、米国の農務長官ホーレス・ケプロンに開拓顧問を要請・受諾される。
ケプロンの年俸10,000円(現在換算5千万円~1億円)
8月にはケプロンとほか「お雇い外国人」が来日して旺盛な活動を開始する。

北海道での「札幌本府」建設事業も、こうした軍歴に基づく
かれ黒田の政治的支配下になっていたことはあきらかだろう。
そして開拓判官・島義勇による1869年明治2年からの計画実行が
半年あまりで頓挫し、本人が召喚された経緯とも符合している。
島義勇は肥前であり、薩摩の黒田とは政治的バックボーンに隔絶がある。
明治3年から4年にかけて札幌本府建設事業が停滞するのは、
黒田による大方針決定がかれの欧米視察後になったことが大きいのだろう。
ケプロンは「薄紙様ノ家屋ヲ堅材マタハ石造ニ代エ、北海道住居ノ体裁ヲ
改革スルコト」と明確な「住宅」建築大方針を建言し黒田も深く同意する。
そしてその時代には革命とも言える理想論的な大胆な「住宅政策」を打ち出す。
開拓使の建築はすべて「洋造」とするという大方針。
激動の時代とはいえ、若干30歳すぎの青年がこういう飛躍を現実化させた。
北海道住宅始原期において、こういう「革命」が現実に行われた。
写真は1874・明治6年竣工の開拓使本庁。
設計に当たったのは外国人ホルトで、1872年(明治5年)7月に着工し
翌1873年の7月に上棟式、10月に竣工。
まさに明治革命の精神がそのまま宿ったかのようなプロポーション。

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