北海道住宅始原の旅であります。
古記録に見える明治5年「御用火事」記述の中で「ガラス邸あたりから」
といった記述があって、その建物について調べていました。
それがきのう触れた遠藤明久先生の古調査で
「夕張通壱号官邸」であると特定されていました。
<夕張通という名は札幌市内道路に付された明治初期官制名称>
先生の書かれた「開拓使営繕事業の研究」や「さっぽろ文庫23 札幌の建物」に
このガラス邸についての調査記録が遺されている。
「この建物は現札幌市中央区北4条西1丁目に前年の明治4年10月に
着工したものであるが明治5年4月に完成した。記録によると
和風住宅で板ガラスは、縁側に面した室内の紙障子の一部に用いている。
「札幌昔話」によるとガラス障子を初めて使用した建物であるという。」
ガラス邸、という名称から無意識のうちに「洋風建築」と思っていたのですが、
どうも和風建築として建てられたようなのです。
用途としては開拓使長官邸としての公邸、後にお雇い外国人宿舎とされた。
「建材としての新規性」を強調する意味で日本人が慣れ親しんだ
「障子」がガラスに置き換わっている方が視覚効果として大きかったのかも。
洋館だと新奇的で当然と受け止められ、衝撃性が薄らいだ可能性もある。
そうした事実を証明するように以下詳細に記述が及んでいる。
「完成の時、官では市内人民に縦覧を許すというので
皆、朝早くからその官邸に押しかけて拝見するという騒ぎ」だったという。
「初めて見る「板ガラス」に対する当時の人々の驚きと感動とを
知ることが出来るエピソードである。」
上に示した「夕張通壱号官邸」図面でのどの箇所が
「紙障子をガラスに変えていたか」は定かではない。
どうもいまのところ、写真記録は探し出せないのですが、
和風住宅として居住部分の外側に「縁」が回されているので、
その内部側、居室の障子建具がガラスに置き換わっていたのでしょう。
そういうことが、画期的というか画「時代」的なことであった。
多くの市民が押し寄せ、ガラスの窓実物に接して興奮する様が伝わってくる。
その後、北海道で特異的にガラス窓が普及していったことを重ね合わせると
この現物展示の威力、効果のほどがいかに衝撃的だったかが知れる。
なので、御用火事記述でも「誰でも知っている」という意味で
ガラス邸という固有名詞となっていたのでしょう。
その後の社会が一般的に受容したことがらというのは、
あまりにも普遍化しすぎて、その事実の起こした衝撃が希薄化するものですが、
このガラス窓については、その大きな事例だと思えます。
このことは当時の札幌都市建設に、かなり決定的なインパクトを与えた。
官による徹底的な「洋風化」志向と合わせて、その建材についても
住空間革命を同時に進行させていたといえるのでしょう。
欧米の社会を視察してきた明治の指導層にとって、この建築の革命は
絶対に推進する必要があり、その最先端地域として北海道札幌は
いわば社会実験の最大の舞台であったということなのでしょう。
ほかの本州地域がごく一部でしかガラス窓の普及が進まなかったのに
北海道ではどんな奥地の庶民住宅にもガラス窓が一般化していった。
ある時期までの「ガラス市場」は北海道マーケットが引っ張っていた。
最近で言えば、樹脂サッシやペアガラス、3重ガラス窓市場が
北海道市場が全体を牽引しているようなことの嚆矢が
この時代の「ガラス窓」において発現していたのだと思います。
北海道が建材の実験場的なマーケットとして日本社会で位置づけられていく、
最初期の事実がこの「ガラス窓」だったといえる。
遠藤明久先生は、この重要ポイントにいち早く気付かれていた。
Posted on 11月 23rd, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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