きのうは謹んである葬儀に参列。
知人のひとり息子さんが交通事故で亡くなられた。
そのあまりにも痛ましい死と悲しみの大きさにいたたまれませんでした。
ひとの死というのは、もっとも根源的な部分で激しく揺さぶられる。
それも子を持つ親として、その体験想像的な感情がわき起こってきて
深く鎮魂の思いが募ってきます。
わたしは1952年生まれで、1955年から札幌暮らし。
ちょうどモータリゼーション社会に突入した時代に生まれ、過ごしてきた。
住んでいた家の目の前は札幌でも有数の幹線道路に面していて
毎年のように道路舗装作業、補修作業が繰り返されていた。
そういう環境の中で少年期の外遊びを経験していた。
そういうなかで、一度、自転車の練習をしていて
父親が見ている前で、もうちょっとで死亡事故という経験をしたそうです。
そういう瞬間記憶というのは、その後の人生で
スッポリと記憶から除外して生きていく人間類型があるようで、
わたし自身は、このことはほとんど記憶がない。
肉体的痛みがそこになく、たぶん深層心理の中で記憶に残らないように
マインドコントロールしていたのかも知れない。
ただ、その後父親から「自転車には二度と乗るな」と言われていた。
そういった時代、クルマ社会の最初の時期、
小学校でも「道路交通」安全確保教育が盛んに行われた記憶がある。
まことに人類は生きにくい時代になったのだと子ども心に刷り込まれた。
こんなに人間行動の自由を制限して本当にいいのか、と。
そういった自分の体験を考えるとき、
この交通事故による死というもの、
それもさらに若い年代での死と言うことを考えてみると、
不条理感がまことに胸に強く迫ってくる。
現代社会ではこういう「突然死」というものがごく身近にあり得る。
死へのこころの成熟ということは、ひとが生きる大きな要素だと思う。
逆に言えば、死が決定しているからこそ、
生きるということの意味がより深くなっていくものだと思う。
それなのに、親として世代を繋いでくれる自分の子どもが
自分よりも遙かに若くして、ということはどうしても受容しがたいのではと思う。
若い魂のやすらかなれと祈るしかない気持ちであります。合掌。
<写真は、青森県下北・恐山霊場>
Posted on 6月 22nd, 2018 by 三木 奎吾
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