難波京、という日本史上のエポックがあった、ということ、
この大阪の歴史博物館に来るまでほとんど知識がなかった(泣)。
古代の「都」という概念では、大王が住まうところという意味合いが強く、
その「座所」は点々と移っていったという認識だった。
そういうなかに大阪平野地域でも仁徳などの座所はあったという理解。
ようやく奈良に至って、本格的な中国式の条里制都市が営まれた、
というような理解がわたしが学習した40-50年前の常識だったと思う。
王城と都市が一体となったものが実質的「都」だという認識。
そういう時代からもう半世紀も経っているのだから、
歴史理解常識も大きく変わってきてもいるのでしょう。
もう一回小学校からの「日本史教育」を受け直してみたいと思う日々(笑)。
たしかに大阪地元ということで
やや肩入れしている部分はあるでしょうが、
実際に「大極殿」とか、「朝堂院」とかの比定地が発掘され、
復元もされている。(大阪城ともそう離れていないのは面白い。)
なんといまは高速道路の主要ポイントになっている。
時代は変わっても「要衝地」であることには変わりないということか。
やはりこの40-50年で飛躍的に各地で考古的発掘が進展して
文書主義的な行き詰まりを大きく打開するようになってきたのでしょう。
それが、インターネットという知の共有化も進んでくることで
大きくダイナミックな進展が起こってきているということ。
そういう意味ではわたしのような歴史好きには面白い時代になって来た。
北海道島の歴史考古でも、興味深い説が数多く発表され、
アイヌの歴史、みたいな学究も進んできているように
各地域ごとで多様な探究が爆発的に進んでいる。
そもそも歴史というのは、多様性そのもので進展するものなのでしょう。
たとえば、現代という時代を一個人が一刀両断的に「理解」するのは
気の遠くなるような大事だということはすぐにわかる。
過去においても、複雑な社会が時間の経過とともに推移してきたので
混沌とした「事実」と「痕跡」は積層していくものなのでしょう。
「大極殿」「朝堂院」などが比定されたとしても、
必ずしも「都」といえるのかどうか、権力の質も考えなければならない。
最近の教育では、知識の「詰め込み」には力点を置かず、
自ら「考える力」の涵養に務める方向に変わってきているとされている。
「どうしてこうなるのか」について学ぶ側で討論したり、
仮説を立てて検証していくという「学習」に変化しているようです。
そんな様子を見ていて、やはり再度小学校からやり直したいというのは(笑)
さて、わたしだけの思いでしょうか?
Posted on 2月 20th, 2018 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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