週末を利用して、わたしはいま紀州を巡っております。
わが家のご先祖様、いまから250年前くらいを生きられた
「寛蔵」さんと言う名前の方が遺された手記がありまして、
その手記のタイトルに「原氏由来の事」と記されているものがある。
「往昔紀州にて仕官たるところ、慶長年中、故ありて浪人と相成る」
と書き記されている。無論わたしの名字は三木なのですが、
この家には夫婦ごと「養子」として、「入家」したとされている。
江戸期のことなので、家というものはなかば法人格であり、
必ずしも血縁関係だけを重視していない時代として、あり得る事態。
まぁたぶん現代の企業取引、M&Aに近いようなことと理解される。
いまから270〜280年前頃のことのようなのです。
で血縁としての家の本来の名字は「原」であると、由来を書いている次第。
そのM&A取引の余韻さめやらぬ時代を生きていた寛蔵さんとしては
それ以前のことについて調べ、書き付けを起こして遺したと。
その「原家」の故地をも探訪された様子も手記に遺している。
「え、わたしは本当は原さんなのでしょうか?」と言うナゾの書き付け。
このあたりは、現代との家意識の違いでもあるのでしょうが、
遺されている末裔たるわたしとしては気になって仕方が無い。
家の存続という意味合いとしては、三木家のことは江戸期以前も
それなりにあきらかにできるスジがあって、そっちはまぁいいのですが、
このご先祖様の書き付け以外にはまったく手掛かりがなく、
さっぱり痕跡の残っていない「原氏」の方は重い宿題として残っている。
まるで「ミッシングリンク」であります(笑)。
ただ、推測していくとすると、いくつかの痕跡はある。
わが家・三木家は法人の方の宗旨としては真宗、門徒スジなのに、
この寛蔵さんのころに真言宗に改宗している。
同時期と目される頃に、家紋も「折敷三の字」から「二つ巴」に変わっている。
というような事実と、「紀州」という記載。
そこでそのか細い手掛かりをもとに、空気感を感じることを目的に
いま、和歌山県を訪ね歩いているという次第なのです。
で、やはり真言宗開祖の空海さんの開いた空中宗教都市・高野山に敬意を。
はじめて訪れてみて、まさに圧倒されました。
敬愛する司馬遼太郎さんの文学碑のようなものが
空海さんが入定されているとされる「奥の院」までの路のはじめにある。
そこからはまるで日本史そのものの有名人の墓名が連続する。
ついには豊臣秀吉や織田信長さんの名前まで出てくる。
わが家のようなか細い記憶痕跡だけしかない庶民とは
まったく別種の「日本の名家・名族」が積層する世界の存在を
まことにこれでもかと知らせていただけます(笑)。
北海道にいると、こういう連綿とした日本史の連続性を意識することは
ほとんど現実性がありませんが、
その時間の積層感にただただ驚くばかりであります。う〜〜む。
Posted on 8月 28th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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