きのうで2日間の「復興建築ツアー」は終了しました。
長大な宮城県沿岸部を南北に分けて、
2日間巡ってきた次第です。
震災津波からの復興、現在進行形はどんなものであるのか、
いろいろな場所で、いろいろな思いを抱かせられました。
東日本大震災という、わたしたち、戦後を生きてきた人間にとって
未曾有の大災害、それもわたし自身もさまざまな関わりを持った
日本人の歴史的民族経験の中で、
それがいったいどのようなことに結実していくのか、
見届けて、かくあるようにかくなったと、それを次の世代に
伝えていく役割が、きっとあるのだと思います。
きのうツアーの終わり頃、ある設計者からのコトバとして、
住宅設計にあたって、被災者と対話した様子が語られていました。
「わたしたち住宅設計の仕事では、いつも施主さんが夢を膨らませて
どんな家になるんだろう、と前向きに未来のかたちを感じるけれど
巨大な喪失後に、再度家づくりに向き合わざるをえない状況で、
多くの人から発せられる、希望とは遠い心理に違和感を持つ」
というお話しを聞きました。
未知への希望ではなく、やむを得ず向き合わねばならない未来。
そういった状況の中で、巨大な喪失から徐々に立ち上がってきて
今の状況が現実になってきている。
今回の視察の最後は長大な防潮堤でした。
三陸沿岸部から、広大な仙台平野、さらに福島県まで連なる
まるで現代の万里の長城とでも言えるような無言構造物。
1兆4000億円の巨費を使い、人々の視線から海が消えることになる。
千年に一度の大災害を、しかしわたしたちは目のあたりにしてしまった。
こういった建造物を作り出す力も,わたしたちの社会は
持ってしまっている以上、創り出すしか無いのかも知れない。
一方で、江戸から明治に掛けて延々と開削され続けてきた
伊達政宗以来の「貞山堀」もこの地域では目に馴染んできた土木事跡。
貞山堀は、岩手県北上盆地・宮城県仙台平野・福島県中通りの
広大な河川交通・物流に供するものであったが、
仙南平野においては、江戸時代初期の新田開発における
灌漑用水路の排水路としての機能も重要だったとされる。
このふたつの巨大土木工事が、遙かな後世にいたって、
そのどちらに知性と品格を感じることになるのか、と不安を持ちながら
現実は、どんどんと進んでいくことになるのだと思います。
結局、人間はそのできることに真摯に向き合っていくしかない。
Posted on 2月 28th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
コメントを投稿
「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」
You must be logged in to post a comment.