わたしは1950年代に幼少年期を札幌の街で過ごした人間です。
3歳までいまの岩見沢市栗沢町上幌で過ごしていましたが、
満3歳になるころには、いまの札幌市中央区北3条西11丁目に移転した。
その当時の街割り、住戸の建てられ方は各戸おおむね60坪ほどの敷地に
写真のような三角屋根の木造住宅が建てられていた。
わが家はある住宅デベロッパーの建売住宅だったそうだけれど、
整然と区画された条丁街区の北東側角地だったからか、
ある程度「商家」仕様のものだったらしい。
東側には北大植物園があって、道幅50mほどの石山道路が走っていた。
この石山道路という名前は、札幌開拓期にさかんに切り出された
建築資材・石山軟石を札幌市内に運搬したことが由来とされる。
それには馬車が利用されたようで、その馬たちの馬糞が
風に乗って人々を難渋させたという「馬糞風」という言葉が交わされていた。
周囲には写真のような建物が、ゆったりした建物間隔ではあっても
そこそこ密に建てられていた。
こどもたちは、その建物と建物の間の空隙を走り回って遊んでいた。
条丁間を通る道路幅員は30~50mはあって、
間もなく始まるモータリゼーション前のそこでは、
子どもたちが、各条丁街区ごとに族集団を形成して、
ときたま相互のケンカが発展し、石合戦まで行われる戦場にもなっていた。
ちょうど舗装道路になる前で、道路には砂利石が敷き込まれていたのだ。
今で言えば、おそろしい子ども同士のケンカだ。
石合戦というのは、戦国期の武田軍団の戦法にも見えるから、
日本の新開地である北海道・札幌では、民族的な野生が
この当時まで余韻として残っていたのだと思う。
ともあれ、そういった少年期の背景として、
この写真のような住宅群が、わたしの脳裏には原風景の街並み、
木造住宅というもののノスタルジーとして刻印されています。
いまも、こうした建物が周囲に鉄筋コンクリート多層階のマンション群が
建ち並ぶなかに点在して残されている。
外壁は木の板が「下見板張り」で張られて、
それらが自然な風化作用で表面が黒く炭化する表情を見せている。
この炭化の様子にも、たぶん厳密には風土的特性があるのではないかと
ふと、そんな想像も起こってくる。
それくらいわたしには「風土」というか、似つかわしい原風景として
特異な感覚がそこから立ち上って来る。
ほぼ均一な壁と反対に、屋根は原色的なトタンが葺かれていた。
そして半年にもなる雪の季節には、
白い背景の中にコントラストも鮮やかにシルエットを見せてくれる。
かたちはそれぞれ、いろいろだったけれど、
街の印象は、こうした建物が主旋律を演出していた。
雪という天与の美しい背景の中で、
それなりの「街並み」という美を創り出していたように思う。
こういう原風景を持っていることをシアワセだと思っています。
Posted on 1月 23rd, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅取材&ウラ話
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