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日本語の「乱れ」論

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よく「最近の若者の言葉は乱れている」というような説、
新聞で興味本位に取り上げられたりしますよね。
ああいうの、どうも、納得できない部分がありました。
どうも、言語学者さんってそういう存在なのかなぁ、と思っていましたら、
そんなのでもないようなのですね。
あるメールマガジンのコラムに、同じような考えの方の発言がありましたので、
その一節をご紹介したいと思います。
先日NHKの爆笑問題の番組に出演した日本最高の言語学の権威の先生は、最近の新しい日本語に完全に肯定的で、たとえば「私的」という表現はとても興味深いと言っておられた。
古代語はもとより、江戸・明治の言葉からも、現代の言葉は大きく変化しており、「正しい日本語」というのは、年寄りが子供の頃に親しんだ日本語。つまりせいぜい昭和初期の言語にすぎない。「全然〜(肯定)。」という表現も、よく誤った日本語とされているが、実は夏目漱石の小説に使われており、明治期には、「全然」は否定を伴うきまりがなく、「断然」とほぼ同じ意味であった事が判明した。つまり、「年寄りは自分の理解出来ない表現が嫌いで、自分のが正しく、そいつらは誤りと思う。」だけである。
というようなこと。我が意を得たり、でした。
そもそも、日本では固有の言語というものの上に、
漢字とか,漢語が上乗せになってきているのが基本だろうから、
いつの時点で「本来の日本語」というのを規定するのか、
はなはだ疑問となると思います。
むしろ、ここまで外来の言語文化を咀嚼して
その上で、「本来の日本語」とまで間違えていってしまうくらい、
完全に自分のものにしてしまっている方が驚異的なのではないか。
むしろそういう「異文化咀嚼能力」のようなものをこそ、
「日本人の誇るべき文化資産」と考えるべきなのではないかと思われます。
歴史で考えても、基本的な「ヤマトことば」のようなものがあり、
最高権力者の名称でも「あめのしたしろしめすおおきみ」などと呼称しているような段階。
圧倒的な超大国であった中国から「国家」制度の基本を輸入した時期。
政治体制とか、書物とか、仏教経典などの漢字文化受容期。
そうした時期に、「天皇」という呼称も定まってきたらしい。
そして、文書主義に基づく官人の基本的な学問として漢籍・漢字への勉強努力。
そうした一方で、宮中女性を中心に発達した「ひらかな・カタカナ」文化期。
そうした文化の全国的な拡散となった全国の生産力の向上を背景とした動乱期。
戦国期にはポルトガル・オランダなどからの単語も受容し、
江戸期という、平安期と似た純粋培養期を経て、
今度は明治維新以降、欧米の概念を輸入し、さらに戦後社会では
アメリカ文化を「カタカナ表記」で、どんどんと受け入れていった。
そんな段階を経て、いまの日本語があり、
これからも変化し続けていくのだと思います。
いまは、むしろ、江戸期に似たような、外来の文化輸入が一段落し、
これから、さて日本人の感性に似合ったように「純粋培養」しようか、
というような段階なのではないかと思います。
外来文化の受容と、国内的純粋培養の時期が交互に来ているようにも感じる。
そう考えれば、漢字をもとに発明したというひらかなや、カタカナって、
ものすごい大発明なのでしょうね。
カタカナというのは、そういう外来のものをとりあえず受容するもっとも手頃な表現手段。
こんな文化を持っているというのは、ほんとうにすごいですよね。
写真は太平洋岸から見る富士山。

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