2日間にわたって「史跡・一乗谷」を取材構成してみました。
中世戦国期には実質的地域支配争奪が活発に繰り広げられた。
復元武家屋敷の「考証」には興味を持たされるのですが、
現物として再生された住宅は、実用的なシンプルさの建物。
戦乱の時代でもあり、朝倉氏の居館などの政治目的をもった施設以外は
仮設的な意匠性で、権威とか階級誇示のような側面は少なかった可能性は高い。
で、上の「街割り図」は、戦国期の地域支配権力の「小都市」として
建築的に興味深い史跡発掘結果だと思います。
最盛時の人口は10,000人と言われている。
比較としては、1550年頃の全国都市の推計人口がある。
ターシャス・チャンドラーによる16世紀までの主要都市の推定人口。
そこでは京都 10万 博多 1,7万 山口 6万 堺 6万 大阪本願寺 3万~6万
というような都市人口の状況が推定されている。
上智大学経済学部教授・鬼頭宏さん資料1600年の全国人口推定は
1389万人とされ、北陸地域全体で86万人、畿内周辺で140万人。
北陸とは、越前・越中・能登・越後など琵琶湖以北日本海側全域。
そう考えると、後背経済圏越前だけで1万人規模はかなりの「都市」。
戦国期を通じて、京都で戦乱が起こると権力周辺層は
中国地域の覇者・大内氏支配地域・山口などに逃れたとされるけれど、
いちばん京都に近い比較的「秩序安定地域」として一乗谷は認識されていた。
都市というのは、この時代博多や堺などの商業都市以外では
地域の安定権力・戦国大名「城下町」が相当していたと考えられる。
まぁイマドキで言えば、企業城下町という概念に近いかも知れない。
地域の戦国大名はその地域の経済を掌握し、軍事統帥権も掌握していた。
都市としての性格としては「城下町」ということになるのだろう。
一乗谷の性格についてWikipediaでは以下の記述(要旨)。
〜現在の福井市街の東南方向約10キロメートル離れた九頭竜川支流
足羽川のさらに支流・一乗谷川沿いの谷あい。東西約500メートル、
南北約3キロと狭小だが、福井平野の端から山地に入ってすぐの場所に位置し、
数キロ先の目前に北陸道や美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中へ続く街道、
北陸道と連絡した朝倉街道などが通る、交通の要衝をすぐ押さえられる位置。
東、西、南を山に囲まれた要害で、南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロの
「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が
計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町を形成していた。
周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群。 〜
ちょうど細長い街区の出入り口を関所で閉じてしまえば、
防衛的都市封鎖がカンタンに可能になるし、城砦も山地に築かれている。
布袋を上下で紐で閉じるような面白い都市構造。よく考えた(笑)。
基本的な中枢施設は「朝倉氏居館」で、政庁機能を保っていただろう。
その「家臣団」居住地域としての「武家屋敷群」があり、
そこから生み出される各種需要に対応した「寺院と町家群」地域に分かれる。
河川流通も利用可能で、平時の物流集散機能を考え合わせると
この時代の人口集積条件的にはかなりの好条件を持っていたと考えられる。
もうちょっと時代が経つと信長秀吉的な商業都市機能中心に移行して、
大阪大都市建築がはじまる。その直前期の都市計画の典型か。
中心施設とその需要に対応する都市の原型を、しげしげ見入っています。
Posted on 11月 1st, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
コメントを投稿
「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」
You must be logged in to post a comment.